2026 年 5 月 8 日公開
【第43話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その3 エンツォ・フェッラーリ (Enzo Ferrari)
エンツォ・フェッラーリ Enzo Ferrari (1898-1988)
エンツォ・フェッラーリは、1898年2月18日の凍てつくような朝、モデナ郊外で生まれました。両親はともにカルピの出身で、控えめな暮らしを送っていました。彼らは、父がイタリア国鉄向けの橋や屋根を製造していた金属加工工場の上の家に住んでいました。エンツォは幸せな幼少期を過ごし、本や文学をこよなく愛した兄のアルベルト(愛称ディーノ)と部屋や日々を共にしました。
しかし、1916年に父親が肺炎で急死し、家庭の平穏は打ち砕かれます。さらに同年、兄のディーノも兵役中に重い感染症にかかり、命を落としました。この時からエンツォは、孤独と向き合いながら、たった一人で生きていくことを学んだのです。
キャリアの始まりとアルファ・ロメオ
1918年の冬、彼は成功を夢見てトリノへと向かいました。そこで、小型トラックを乗用車のシャシーに改造する工場でささやかな職を得ることができました。その後、ミラノのCMN(Costruzioni Meccaniche Nazionali)でテストドライバーとしてのキャリアを積み、やがてレーシングドライバーへと転身します。レースデビューは1919年のパルマ=ポッジオ・ディ・ベルチェートのヒルクライムレースでした。翌年にはアルファ・ロメオとの20年に及ぶ協力関係が始まり、最初は公式ドライバーとして、後にレース部門の責任者として活躍しました。
1929年、すでにスポーツの功績により「カヴァリエーレ(騎士)」や「コメンダトーレ(騎士団長)」の称号を授与されていたエンツォは、モデナに「スクーデリア・フェラーリ」を設立しました。これは会員がレースに参加するためのスポーツ協会でしたが、すぐにアルファ・ロメオの支部となりました。
そのシンボルこそが、あの「跳ね馬(カヴァリーノ・ランパンテ)」です。
エンツォ・フェッラーリは著書『わが残酷なる喜び(Le mie gioie terribili)』 の中でこう語っています。
「1923年にサヴィオ・サーキットで初優勝した際、英雄フランチェスコ・バラッカの父であるエンリコ・バラッカ伯爵と知り合いました。その出会いが縁で、後に母親のパオリーナ伯爵夫人ともお会いしました。ある日、彼女が私にこう言ったのです。『フェラーリさん、私の息子の跳ね馬をあなたの車につけなさい。きっと幸運をもたらしてくれますよ』。私は今でも、ご両親がその紋章を私に託してくれた、献辞入りのバラッカの写真を大切に持っています。馬は当時も今も黒のままですが、私はそこにモデナの色であるカナリア色の背景を加えました」
苦難と栄光
1932年、父親になったばかりのフェッラーリはドライバーを引退し、その数年後にはアルファ・ロメオとの提携も解消しました。しかし、新たな冒険が始まろうとしていました。1939年にモデナで設立され、1943年にマラネッロへ移転した「オート・アヴィオ・コストルツィオーニ(フェッラーリの前身)」です。
戦争による避けられない困難を乗り越え、跳ね馬のメーカーはついに「夢の赤い車」を造る準備を整えました。フェッラーリはすぐにF1を含むレース界でデビューを飾り、勝利を重ね、その車両は革新と贅沢な職人技の代名詞となりました。
Auto Avio Costruzioni Tipo 815
1956年は、フェッラーリにとって最悪の年となりました。人生の心の支えであった息子のディーノを亡くしたのです。翌年も悲劇は続きました。ミッレ・ミリアで2人のドライバーと9人の観客が死亡する事故が起き、彼は欠陥タイヤを装着したとして告発されました。裁判の結果、無罪放免となりましたが、これは彼にとって大きな打撃となりました。その心の傷は何年も癒えることなく、1977年、自ら創設した会社の職を辞し、愛するモデナで引退生活を送る決意をしました。
晩年
控えめで内向的な人物であったエンツォ・フェッラーリは、その功績により、ボローニャ大学の名誉工学博士号、モデナ大学の名誉物理学博士号、大十字騎士章(カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ)、コロンブス賞、社会科学分野のハマーショルド賞など、数多くの重要な称号や賞を授与されました。
彼が携わった最後のプロジェクトは、マラネッロのフェッラーリ・ギャラリー(現ムゼオ・フェッラーリ)の設立でしたが、残念ながらその完成を見ることはできませんでした。エンツォ・フェッラーリは、開館の1年半前である1988年8月14日、90歳でこの世を去りました。
引用文献 :LA STORIA DI ENZO FERRARI
次回2026年5月18日は「Michelangelo Antonioni」です。