2025 年 12 月 25 日公開
イタリア料理がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
2025年年12月10日、
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、イタリア料理をユネスコの「無形文化遺産」に登録しました
ピザを含むイタリアの人気料理は、すでにユネスコの「無形文化遺産」に登録されていますが、今回はさらに、イタリアの料理の伝統と、それが実践され伝えられる方法が認定されました。
この決定は、インドの首都デリーで開かれたユネスコの政府間委員会で発表されました。
ユネスコはイタリア料理について、「家庭や学校、あるいは祭りや式典、社交の場を通じて、家族やコミュニティーとつながる手段」だと説明しています。。
ユネスコの広報担当者はBBCに対し、他の国々でも「食文化に関連する慣習、技能、伝統、社会的慣行」が認定されていると説明。過去の例として、「日本の伝統的な食文化である和食、特に正月の祝い料理、多民族社会の食体験であるマレーシアの朝食文化、フランスの美食」などを挙げました。
参照資料:Italian cooking awarded Unesco cultural heritage status
2025 年 12 月 16 日公開
イタリアのクリスマス (Il Natale dell’Italia)
CENONE (豪華な夕食)
イタリアではクリスマスのことをナターレ(Natale) といい、イエス・キリストの降誕を祝う伝統行事であり、この国の最も重要な祝日です。12月24日のクリスマスイブ(Vigilia di Natale )には、家族や親戚が集まって祝うのが伝統的です。イタリアのクリスマスは、伝統的な料理と家族と宗教的な敬虔さが一つになった、特別な時間です。
子供たちは、サンタクロース(Babbo natale )が、手紙に書いたものを持ってきてくれたかどうかを楽しみに,
クリスマスの朝を待ちます。この時期は、子供たちにとって嬉しい期間なのです。なぜなら、学校は通常、12月23日から1月6日までお休み になるからです。
この期間中、観光客で溢れるアルプスへ、スキーをしに出かける人々もいます。
このことを「Settimana bianca(白い一週間 )」のために出発すると言います。
クリスマスツリー(L'Albero di Natale )は、通常12月8日の無原罪の御宿り(Immacolata Concezione )の祝日に準備されます。クリスマスツリーと一緒に、イエス・キリストの降誕を再現したプレゼーペ(Presepe )も作られます。イタリアでは、プレゼーペの展示会が多く開催され、最も有名なのは間違いなくナポリの展示会です。
プレゼーペ(Presepe):キリスト降誕の模型
クリスマスの前日は「Vigilia(イブ )」と呼ばれ、あらゆるお店はいつもより早く閉まり、12月25日と26日 はすべてお休みになります。
イブの夕食は最も重要な食事の一つで、「cenone:豪華な夕食 」と呼び、「魚料理」がテーブルを飾るのが一般的です。キリスト降誕の前日、お肉を食べず体を清めるという意味があります。
(夕食は「cena」と言い、「cenone」という単語はこの「cena」に拡大辞 -one がついた形です。)
家族で豪華な夕食(Cenone di Natale)をお腹いっぱい食べた後、夜の11時半ごろに地元の教会へ向かい、深夜0時からの真夜中のミサ(Messa di mezzanotte)に参加するのが一般的です。ミサの最中、または終了直後に、「プレゼーピオ」の空席だった飼い葉桶に赤ちゃんのイエス人形を置く儀式が行われることが多くあります。
イブとクリスマスのために、たくさんのお料理が作られます。イブは魚料理を食べるのに対して、クリスマスは肉料理となります。基本的には雄鳥の料理がポピュラーで、雌鶏、牛肉、仔牛肉、豚肉など、各地域、各家庭によって異なります。北のピエモンテ州から南のシチリア州まで、伝統の自家製パスタ、スープ、肉料理など、代々受け継がれてきた伝統料理を味わいます。イタリアの20州で、各地域に独自のメニューがあり、さらにいくつものバリエーションがあります。
il Panettone e il Pandoro
il Tollone
お祝いの期間中、パネトーネ、パンドーロ、トッロー ネのような特別な種類のデザートが用意されます。
クリスマスの翌日、12月26日は、最初のキリスト教の殉教者の名前から取って「サント・ステファノ(Santo Stefano )」と呼ばれます。サント・ステファノの夜には、前の2回の夕食で残ったものをいただきます。
クリスマスの期間中には、新年のお祝いであるカーポダンノ(Capodanno、元日 )もあります。12月31日(San Silvestro)には、出かけたり、集まったりして、一年の最後の日に「cenone」で祝います。店は遅くとも18時には閉まります。真夜中になると、Spumante(スパークリングワイン)を開けて祝います。
クリスマスのお祭りの終りは1月6日のエピファニア(Epifania、公現祭 )です。これは、キリスト教で東方の三博士がベツレヘムの馬小屋に行き、イエスを見て彼を神として認めた日です。
1月6日は、特に子供たちにとって重要です。なぜなら、伝統によれば、「ベファーナ(Befana )」という名の老婆が家々を飛び回り、良い子たちの靴下にたくさんのお菓子を詰めるからです。悪い子たちには代わりに炭(現在は炭を模した黒い砂糖菓子)が入ります!
Befana お婆さんのこと:
キリストが生まれた夜、星に導かれた東方の三博士がベツレヘムへ向かう途中、道を尋ねるために一軒の家に立ち寄りました。そこに住んでいたのがBefanaという名のお婆さんでした。三博士は彼女にも同行して幼子イエスを拝むように勧めましたが、Befanaは当時、家事が忙しいなどの理由で同行を断りました。
三博士が去った後、Befanaは断ったことを後悔し、贈り物をバスケットに詰め込んで彼らを追いかけましたが、追いつくことはできませんでした。彼女はイエスを見つけることを諦めず、それ以来、世界中の家々を旅して、もしかしたらその中に幼子イエスがいるかもしれないと考え、良い子には贈り物を、悪い子には炭を煙突から落として回るようになった、とされています。
L'Epifania tutte le feste porta via.
エピファニアは、全てのお祭りを連れ去る。
"Natale con i tuoi e Pasqua con chi vuoi"
クリスマスは家族と復活祭はお好きな人と。
2021 年 1 月 22 日公開
イタリア在住のジャーナリスト内田洋子さんが企画・翻訳した『デカメロン2020』
ヨーロッパで最初に新型コロナウイルスが蔓延し、非常事態宣言の発動されたイタリア。その「コロナ禍」で各地に住む17歳から29歳の若者たち24人が綴った日々の記録、耳を澄ませ、見て、感じて、触れた日々を書き留め、コロナ禍のイタリアで人々の気持ちや生活はどう変わっていったのか世の中の光景と人の声をまとめ未来へ伝えるために、クラウドファンディングで約270人が支援し出版されました。
中世のイタリアで猛威を奮ったペスト禍に書かれたジョヴァンニ・ボッカッチョの古典『デカメロン』の現代版として書籍化された『デカメロン2020』について、内田洋子さんは「時代を切り取った貴重な資料。後々、演劇などの創作に昇華させてもらえれば」と語っています。私は、この本を手にしたことで、先の見えない不安な日々を共有する若々しい仲間から、様々な生活のアイディアと力を得ています。
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2020 年 3 月 4 日公開
新型コロナウイルス感染症対策に関してイタリアでは
新型コロナウイルス感染症対策に関して、世界中で色々な対策が行われていますが、
ロンバルディア州の緊急対策で休校になったヴォルタ高校のドメニコ・スクイラーチェ校長は“マンゾーニの名著「許嫁(I Promessi Sposi)」の中から17世紀のミラノを襲ったペスト感染の状況を語る一部を引用して生徒たちへのメッセージをネット掲示板に掲載しました。
<ヴォルタ高校の皆さんへ>
“ドイツのアラマン族がミラノに持ち込むのではないかと健康省が恐れていたペストが、実際に侵入してイタリア中に蔓延し、人々を死に至らしめた…”
ここに引用したのは、1630年にミラノを襲ったペストの流行について書かれた「許嫁」の第31章の冒頭です。ずば抜けた先見性と明解な文章。ここ数日の混乱の中に置かれた君たちに、しっかりと読むことを勧めます。ここには全てが書かれています。
“外国人を危険と見なし、当局間は激しい衝突、感染者を異常なまでに捜索し、専門家を軽視し、感染させた疑いのある者を捕え、デマに翻弄され、愚かな治療をし、必需品を買い漁り、医療危機…….”
これは、マンゾーニの小説というより、まるで今日の新聞を読んでいるかのようです。
親愛なる生徒のみなさん、当然のことながら学校生活の中で学ぶリズムや規則は、市民生活の秩序につながります。休校に至ったという事は、当局がそれ相応の決断をしたことであって、専門家でもない私は、その判断の正当性を評価することも、また評価できると過信もしません。当局の判断を信頼、尊重し、その指示を注意深く観察して、君たちには次のことを伝えたいと思います。
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冷静さを保ち、集団パニックに巻き込まれず、基本的な予防措置をして日常生活を続けてください。この機会を利用して散歩をしたり、良い本を読んでください。体調に問題がなければ家に閉じこもる必要はありません。スーパーや薬局に殺到しマスクを求める理由もありません。マスクはそれを必要とする病気の人のために残しておいてください。
病気感染の勢いが速いのは、発展した文明の結果です。それを止める壁がないことは、数世紀前も同様で、ただその速度が遅かっただけです。このような危機における最大のリスクについては、マンゾーニ、そしてボッカッチョが、私たちに教えてくれています。
それは、人々の社会生活が毒され、市民生活が荒廃すること。目に見えない敵に脅かされると本能的に至る所に敵がいるかのように感じ、私たちと同じ人々までもを脅威とみなしてしまう危険があります。
14世紀と17世紀のペスト流行時と比べると、私たちには確実に進歩した医学があります。私たちが築いてきた社会と人間性という最も貴重な資産を守るために理性的な判断をしましょう。もしこれができなければ、”ペスト”が勝利してしまうかもしれません。
では、学校で君たちを待っています。
Domenico Squillace
2017 年 6 月 11 日公開
Bicerinのお話
2001年に、ピエモンテ州の“bevanda tradizionale piemontese(ピエモンテ州の伝統的飲み物)”として認定されたBicerin(ビチェリン)とは?
イタリア、トリノの伝統的な温かい飲み物で、ホット・チョコレート、エスプレッソ、そして牛乳から作られ、丸いグラスに層状にして提供されます。1763年にオープンしたCaffe Al Bicerinで提供されたことから、この名がついたとされています。ビチェリンという言葉はピエモンテ方言で「小さなグラス」を意味します。トリノはオーストリアからの独立運動が最も盛んに行われた場所で、愛国者、文学者、芸術家が多く集まり、カフェの文化が栄えました。
ビチェリンは「bicerin ‘d Cavour (カヴールのビチェリン)」とも呼ばれています。イタリア統一の立役者であり、イタリア王国初代首相であったCouvour(カヴール)は、このカフェがお気に入りで、入り口を入ったすぐ左側、時計の下の大理石の丸テーブルで、新聞を片手にbicerinで身体を暖め鋭気を養っていたそうです。
このカフェを訪れた人々の中には、アレクサンドル・デュマ・ペール、フリードリヒ・ニーチェ、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、ジャコモ・プッチーニ、イタロ・カルヴィーノなど多くの著名人がいて、このビチェリンという飲み物は彼らを虜にしました。
1896年2月1日にトリノのテアトロ・レージョで、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」が初演されましたが、この頃プッチーニは、このカフェのすぐ近くのアパートの屋根裏部屋に住んでいて、カフェに足繁く通い、この生活が「ラ・ボエーム」のモデルとなったと自身の思い出として語っています。
2016 年 1 月 25 日公開
アカデミックな15分間(イタリア見聞録)
イタリアの大学には「quarto d'ora accademico:アカデミックな15分間」と呼ばれるものが存在しています。つまり大学の講義が、時間表に発表されているより15分間遅れて始まることを指しています。
というのは教授が教室から教室への移動するために、この習慣が自然に生まれたのだと言います。
そしてこのことに影響を受けて、大学でないところで行われる一般の講演会まで遅れて始まるのが習慣になってしまったとか。。。。。
2015 年 9 月 16 日公開
アコーディオン(la fisarmonica)の父(イタリア見聞録)
イタリア、アドリア海沿岸の城塞都市「カステルフィダルド:Castel-
fidardo」は、世界中のアコーディオン生産量の大半を占める街です。
その歴史は、1863年にイタリア、マルケ州のカステルフィダルドの貧しい農家ソプラーニ(Soprani)家が、一人のドイツ人の巡礼者を家に泊めたところから始まります。
このドイツ人は、感謝の気持ちを表すために、所持していた楽器(黎明期のアコーディオン)をソプラーニ家に置いていったのです。この家の青年パオロは、この楽器の構造に大変興味を持ち、分解したり組み立て直したりし、遂にはその構造を把握したのです。そして兄弟たちと共に家の地下室で、研究、改良してアコーディオンを製作し、街近隣のマーケットに売りに出したところ評判となったため、本格的にアコーディオンの製造を始めました。
パオロ・ソプラーニ社は街の中心に拠点を移し、従業員を増やしてゆき、1800年末頃には、息子のルイージとアキッレも加わって、400人の従業員を抱えるまでの規模になりました。そしてこの頃、カステルフィダルドにはパオロの兄弟たちによる社も含め、アコーディオン社が13社にもなり、パオロは、アコーディオンの生産を一大産業にまで発展させた「アコーディオンの父」となったのです。
1900年には、パオロ・ソプラーニ社はパリ万国博覧会に参加し、パオロはブリュッセルとパリの発明家アカデミーの名誉会員になりました。
2015 年 6 月 2 日公開
Baci:バーチチョコレート
イタリアからのお土産の定番ともなっているバーチ・チョコレート。
イタリア中部ウンブリア州の州都ペルージャにあるPerugina社のヘーゼルナッツ(イタリア語ではnocciola)の入ったチョコレートのお話。
Perugina社(ペルジーナ社)は経営をFrancesco Buitoni(フランチェスコ・ブイトーニ)氏、お菓子の生産技術を女性実業家Luisa Spagnoli(ルイーザ・スパニョーリ)が担当し、1907年に創業されました。
“Baci”は1922年、Luisa Spagnoliが、チョコレート菓子を製造する際に余ったヘーゼルナッツを利用しようと考えたアイデアから生まれ、ヘーゼルナッツが入ったチョコレートはまるでゲンコツのような形をしていたため当初は “cazzotto (ゲンコツ)”と呼ばれていました。
この頃から経営に参加していたFrancesco の息子Giovanni Buitoni (ジョヴァンニ・ブイトーニ)は、Luisa より14歳年下でしたが、彼女と愛し合うようになり、このチョコレートに“Bacio (キス)”と言うロマンチックな名前を薦めたのです。そして、この名前になると“Baci”(bacio の複数形)は大変な勢いで有名になりました。
そこで、この社のアートディレクターFederico Seneca(フェデリコ・セネカ)が大きな二つの改革をしました。
チョコレート毎に、愛についてのフレーズがイタリア語・英語・フランス語などの言語で書かれている紙「cartiglio:カルティッリオ」を入れ、パッケージを青色にし、そこには星空の下のカップルを描いたのです。
こうして販売戦略も成功し、1950年代には
“Ovunque c’e amore c’e un Bacio Perugina:愛のあるところにはペルジーナのバーチョがある”という宣伝文句で、Baciチョコレートをプレゼントすることで、より効果的な愛情を表現できるように感じさせたのです。そしてこれを一回り小さくしたBacetti(小さなキス)チョコレートも生まれました。
Baciチョコレートは、一つ一つ青い星が散りばめられている銀色の包み紙に包まれ、ヘーゼルナッツが丸ごとひとつとジャンドゥーヤが入ったダークチョコレートです。
また中身はそのままでバニラ風味のホワイトチョコレートに包まれた“Baci bianco:バーチビアンコ”という種類もあり、この包み紙は青色で白い星が輝いています。
2013 年 10 月 29 日公開
Campanilismo カンパニリズモ:郷土愛(イタリア見聞録)
イタリア人は自分の生まれ育った土地を誇りにし、自分の街が一番だと信じています。そこで自己紹介するときには「Sono milanese. 僕はミラノ出身です。」「Sono romana. 私はローマ出身です。」と出身地を言うのが当たり前のようになっています。
イタリアで生活してみると、人々が、朝・夕と「Campanile カンパニーレ:鐘楼」から街中に響き渡る鐘の音に包まれながら生活し、鐘の音が一日の始まり、そして一日の終わりを告げ、このことからも街がひとつの共同体を作っているように感じられます。そして各々の街のCampanileが異なる音色を持つことから、生まれ育った街の鐘の音がイタリア人の愛郷精神や地方性を育んでいると考えられ、故郷を愛する心を「Amore di campanile(鐘への愛):愛郷心」と表現します。ここから「Campanilismoカンパニリズモ:郷土愛」という言葉が生まれました。
フィレンツェ歌劇場の音響デザイナーBaggio氏は、イタリア国内のみならずヨーロッパ各地を廻り、それぞれの街のCampanileの音を録音収集しています。彼は舞台で鐘の音が必要になると、その場面にピッタリな音を提供できる人物として、オペラ制作者の間では良く知られています。イタリア人にとってはCampanileの音はとても重要であり、
指揮者や各劇場からの難しい要望にも答える彼は、劇場関係者の間で厚い信頼を得ています。
2011 年 7 月 20 日公開
スカラ座の Punto Maria Callas
スカラ座の舞台上にPunto Maria Callas(マリア・カラス ポイント) と
呼ばれる≪舞台のセンターから少し上手寄りの前のスポット≫があります。
これはオケピット横の上手側最上階のpalco席にいたオナシスから最も良く
見える場所であったので、Callasはここに立って歌っていたのです。
今でもプリマドンナたちはこのスポットで歌いたがり、演出家たちも無言のうちに了承しています。