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【第41話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その1 ジュセッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)

ジュゼッペ・ヴェルディ(Le Roncole di Busseto, 1813 – Milano, 1901)
ジュゼッペ・ヴェルディは、1813年10月10日、当時オーストリア統治下にあった
パルマ公国の小さな集落、レ・ロンコレ(ブッセート近郊)に生まれました。
父は宿屋と雑貨商を営み、母は紡績女工としても働いていた非常に質素な家庭の出身でした。
若きヴェルディは早くから音楽の才能を発揮します。ブッセートで彼は、裕福な商人アントニオ・バレッツィと出会いました。音楽に造詣の深かったバレッツィは、少年の類まれな素質を見抜き、ブッセート大聖堂のオルガン奏者フェルディナンド・プロヴェージに師事させるための費用を支援し、自宅に彼を住まわせました。

18歳の時、バレッツィの勧めもありヴェルディはミラノへ向かい、音楽院の入学試験を受けますが、資格年齢〈9~14歳)をはるかに越えていたこともあり「不合格」という衝撃的な結果に終わります。この不合格は歴史的な出来事として語り継がれていますが、審査員側の弁明をすれば、当時の彼は作曲家としてではなく「ピアニスト」として考えられていたこともありました。しかしバレッツィは彼の才能を信じ続け、ミラノに留まって個人レッスンを受けるための援助を惜しみませんでした。
アントニオ・バレッツィ(1787–1867年)
1836年、学業を終えたヴェルディはブッセートの音楽監督の職を得て、バレッツィの娘マルゲリータと結婚し、二人の子供を授かりました。平穏な日々でしたが、彼の夢はスカラ座という大舞台を音楽で成功することでした。
一家でミラノへ移住しますが、そこから人生で最も過酷な時期が始まります。二人の子供と最愛の妻を相次いで亡くし、肝心の音楽活動もなかなか成功しませんでした。


バレッツィの娘マルゲリータ(1814-40年)
そんなヴェルディの運命を変えたのが、1842年3月9日にミラノ・スカラ座で初演されたオペラ『ナブッコ』でした。この作品の出演者の中には、後に彼と深い絆で結ばれることになる名歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニがいました。『ナブッコ』以降、ヴェルディは次々と作品を発表し、イタリア国民の絶大な支持を獲得していきます。
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ (1815~1897年)
マッフェイ伯爵夫人のサロンでは、外国の支配からイタリアを解放し、ばらばらの国家を一つにまとめようとする文人や知識人、愛国者たちと交流を深めました。1843年にスカラ座で初演された『第一回十字軍のロンバルディア人』は大喝采を浴び、ヴェルディはイタリア・リソルジメント(国家統一運動)の象徴的な音楽家となりました。
1851年から1853年にかけて、彼は現在も最も愛されている3つのオペラ、いわゆる「中期の三部作」(『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』)を作曲しました。その後パリでは、シラーの戯曲を基に人生の虚無感を描いた傑作『ドン・カルロ』(1867年)を、1871年にはカイロで『アイーダ』を初演しました。
晩年と慈善活動
晩年のヴェルディは宗教音楽にも力を注ぎました。その最高傑作が、1874年に発表された『レクイエム(死者のためのミサ曲)』です。これは、彼が深い敬意を抱いていたリソルジメント文学の巨匠、アレッサンドロ・マンゾーニの死を悼んで作曲されたものです。

ヴェルディが最後に取り組んだ大事業は、幸運に恵まれなかった音楽家たちのための「憩いの家(音楽家のための老人ホーム)」の建設でした。ミラノに現存するこの施設は、ヴェルディ作品の著作権収入によって今も運営されています。

アレッサンドロ・マンゾーニ(1785-1873年)
1901年1月27日、ヴェルディはミラノのホテルでその生涯を閉じました。
本人は「葬儀は簡素に、行列も不要」と遺言していましたが、この偉大な音楽家に最後のお別れを告げるため、
葬列の通り道には数え切れないほどの群衆が詰めかけました。
引用文献 :Giuseppe Verdi: vita, opere riassunto
次回2026年4月28日は「Arturo Toscanini」です。