【第37話】トスカーナ州出身の著名人:その13 インドロ・モンタネッリ(Indro Montanelli)
インドロ・モンタネッリ(1909年フチェッキオ –2001年ミラノ)
彼は1909年、トスカーナの丘陵地帯にある小さな町、フチェッキオで生まれました。父セスティリオ・モンタネッリは控えめな高校校長でしたが、地元の裕福な地主のひとり娘であるマッダレーナ・ドッドリと結婚しました。「インドロ」という名は父がヒンドゥー教の神「インドラ」を男性化したものとして名付けたものです。
幼少期を故郷で過ごした彼は、20世紀初頭に約20年間フチェッキオの町長を務めたエミリオ・バッシの別荘によく滞在していました。モンタネッリはバッシを「養祖父」のように慕っており、その深い絆から、1987年に設立された自身の財団にはバッシの名も併記することを望みました。
リエーティで高校を卒業した後、フィレンツェ大学の法学部に進学。また、フランスに何度も滞在し、そこでジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせました。その後、政治学の学位も取得し、カナダやエチオピアからの重要なルポルタージュを手がけるようになります。
その後、新聞『イル・メッサッジェーロ』の特派員としてスペイン内戦へ向かいますが、サンタンデール戦役に関する論争を呼ぶ記事を書いたためにイタリアへの帰国を余儀なくされます。帰国後、彼は『コリエーレ・デラ・セラ』紙に職を得ました。
アルバニアやドイツを巡り、崩れゆく当時の世界を精密に描写した一連の旅の後、第二次世界大戦の勃発を追いました。ノルウェーからフランス戦線、さらにはギリシャ戦役の従軍記者として活動しました。
1942年、モンタネッリは若きマギー・ド・タルシエンヌと結婚。1944年には彼女と共にサン・ヴィットーレ刑務所での過酷な収監生活を経験しますが、母の懇願を受けたシュスター枢機卿の介入により救い出されました。その後、追手を逃れるためにスイスへ亡命し、終戦までそこで過ごしました。
『イル・ジョルナーレ』の創刊と襲撃
1974年、モンタネッリは自ら編集長を務める新聞『イル・ジョルナーレ』を創刊。グイド・ピオーヴェネやエンツォ・ベッティッツァといった国際的に著名なジャーナリストたちを呼び寄せました。
しかし、彼の精力的な活動は極左テロ組織「赤い旅団」の標的となり、1977年6月2日、通りで襲撃され両脚を銃撃されるという重傷を負いました。
『ラ・ヴォーチェ』と晩年
その後、当時『イル・ジョルナーレ』のオーナーであったシルヴィオ・ベルルスコーニとの対立から、1994年に同紙を去ります。同年3月22日、若手記者たちと共に新紙『ラ・ヴォーチェ(声)』を創刊しましたが、この新たな挑戦は資金難によりわずか1年で幕を閉じることとなりました。
長らく病を患っていたインドロ・モンタネッリは、2001年7月22日、ミラノの自宅で二番目の妻コレット・ロッセッリら家族に見守られながら、92歳の生涯を閉じました。
主な功績 彼は、古代から20世紀末までのイタリアの歴史を平易な文体で綴った歴史叢書『イタリアの歴史(Storia d'Italia)』の著者でもあります。どの活動においても、モンタネッリはその鋭い筆致で幅広い読者の支持を獲得し続けました。
Indro Montanelli – Storia d’Italia (12 voll.) – Corriere della Sera 2003
Incontri di Indro Montanelli - 03 - Incontro con Carlo Levi [1959]
YouTube·PagliaQuotidiana·2021/03/29
引用文献 :indro Montanelli, una vita dedicata al giornalismo
次回2026年3月18日は「Oriana Fallaci」です。