【第35話】トスカーナ州出身の著名人:その11 ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini)
ジャコモ・プッチーニ(ルッカ、1858年 - ブリュッセル、1924年)
1858年12月22日、ルッカに生まれたジャコモは、ミケーレ・プッチーニとアルビーナ・マージの間に生まれた9人兄弟の6番目の子供でした。プッチーニ家は数世代にわたりルッカ大聖堂の楽長を務めてきましたが、ジャコモも5歳で父を亡くした後、母方の叔父のもとへ修行に出されました。
ルッカを離れた後、1880年から1883年まで、彼はミラノ音楽院で学びました。これは、母親の嘆願を受けたマルゲリータ王妃から、1年間、月100リラの奨学金を与えられたおかげでした。この音楽院では、アントニオ・バッツィーニやアミルカーレ・ポンキエッリといった巨匠の指導を受けました。この数年間、彼は友人のピエトロ・マスカーニと同じ部屋を分け合って過ごしました。
1883年、彼はソンツォーニョ出版社が主催する一幕物オペラのコンクールに『レ・ヴィッリ(妖精ヴィッリ)』で参加しましたが、結果は落選。しかし、この台本を手がけたフォンターナはプッチーニのために、当時ミラノの知識人界で最も著名な人物数名にオペラを個人的に試聴してもらえるよう、ジャーナリストのマルコ・サラの居間での音楽会を企画したのです。出席者の中には、アリーゴ・ボーイト、ジョヴァンニーナ・ルッカ、アルフレード・カタラーニなどがいました。そこでプッチーニはこの音楽を演奏し、大きな称賛を浴びたのです。
こうして1884年5月31日、この作品はミラノのダル・ヴェルメ劇場で上演され、ソンツォーニョ社のライバルであったリコルディ社のジュリオ・リコルディの後援を受け、観客と批評家の両方から熱狂的な歓迎を受けました。この成功によりプッチーニはリコルディ社と契約を結ぶことができ、作曲家の生涯を通じて続く協力関係が生まれました。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』である。
プッチーニは1880年代後半に、ピアノの生徒であったエルヴィーラ・ボントゥーリと駆け落ち同然で一緒になり、息子アントーニオをもうけました。その後、エルヴィーラの前夫の死を経て1904年に正式に結婚し、さまざまな波乱を乗り越えながら生涯を共にすることになります。
1891年には、トスカーナ地方のトッレ・デル・ラーゴに移り住みました。彼はその素朴な世界を愛し、趣味の狩猟や芸術家仲間との馬鹿騒ぎを楽しむための理想的な場所だと考えていました。マエストロ(プッチーニ)はこのトッレ・デル・ラーゴを自身の隠れ家とし、ここで彼の最も成功した作品の数々が作曲されました。
第3作目の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなりました。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれました。
後期ロマン派オペラの傑作の中でも、『ラ・ボエーム』は4つの場面で構成された劇的統合の模範といえます。続く『トスカ』は、プッチーニが強烈な色彩を持つ歴史メロドラマへと踏み出した作品です。そして『蝶々夫人』は、プッチーニにとって初の異国情緒あふれる作品となりました。1904年のスカラ座での初演は散々な失敗(fiasco)に終わりましたが、何度かの改訂を経て、ブレ-シアのグランデ劇場で再演されると大成功を収め、その名声は今日まで続いています。
プッチーニの折衷主義と独創的な解決策への絶え間ない探求は、1918年にニューヨークで初演された、いわゆる『三部作』という3つの一幕物オペラにおいて実現されました。この三つの作品は対照的な性格を持っており、『外套』は悲劇的でヴェリズモ的、『修道女アンジェリカ』は哀歌的で叙情的、そして『ジャンニ・スキッキ』は喜劇的です。
晩年、彼は『トゥーランドット』の制作に打ち込みましたが、1924年に喉の腫瘍のため急逝したことで未完のまま残されました。その後、プッチーニの草稿に基づき、フランコ・アルファーノによって完成されました。
指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニは、初演の際、プッチーニが書き残した最後の音符、すなわちリューの死に伴う葬送の行列の場面で演奏を中断し、観客に向かってこう語りました。 「ここで上演を終えます。この時点でマエストロは亡くなりました。」 マエストロの墓は、トッレ・デル・ラーゴにある別荘の礼拝堂にあります。
自動車への情熱
音楽の他に、プッチーニには大きな情熱を傾けていたものがありました。それは自動車で、彼は生涯で14台もの車を購入しました。
1903年2月25日、ルッカから住まいのあるトッレ・デル・ラーゴへ戻る途中、妻のエルヴィーラと息子のアントニオを乗せて車を運転していた際、激しい交通事故を起こしました。車は溝に転落し、プッチーニは足を骨折。その影響で『蝶々夫人』の執筆は数ヶ月間遅れることとなりました。
トスカニーニへの感謝
プッチーニは感謝の気持ちを忘れない人でした。それは、1923年にスカラ座で上演された『マノン・レスコー』を指揮したアルトゥーロ・トスカニーニに宛てた、以下の言葉からも分かります。
「君は私の人生で最大の満足を与えてくれた!君の解釈は、私が考えていた以上のものだ……。昨夜、君の偉大なる魂のすべてと、古き友であり、かつての戦友である私への愛を確かに感じた。君が誰よりも、30年前の私の若々しく情熱的な精神のすべてを理解してくれたことが、私は幸せだ。心の底から感謝する。」
引用文献 :Giacomo Puccini biografia,Tosca alla Scala, dieci curiosità su Giacomo Puccini.
次回2026年2月8日は「Guccio Gucci」です。