ブログ BLOG

【第42話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その2 アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)

Arturo Toscanini
(1867年、パルマのボルゴ・ロドルフォ・タンツィ、1957年ニューヨーク近郊のリバーデイル。)
アルトゥーロ・トスカニーニは、父クラウディオと母パオラ・モンターニの間に生まれました。
仕立屋であり合唱団員でもあった父は熱烈なガリバルディ支持者(赤シャツ隊)であり、
そのため幼いトスカニーニは幼少期の大部分を母方の祖父母のもとで過ごしました。
11歳の時にはすでに音楽を熱愛しており、パルマ音楽院のカリーニ教授のチェロ科に特待生(学費免除)として入学します。
1884年には『ローエングリン』の演奏に加わり、学校の仲間からはすでに「天才」と呼ばれていました(ただし、その鋭すぎる批判精神から「Forbicione:フォルビチョーネ(大鋏)」ともあだ名されていました)。
1885年に音楽院を最優秀の成績で卒業。音楽院の図書館には、今も彼のオーケストラ用スコア3点と、歌とピアノのためのロマンス1点が保管されています。
卒業後、彼はチェリストとして巡業オペラ団に加わります。ブラジル公演の最中、指揮者の代役として急遽、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』を指揮することになりました。楽譜をすべて暗記していたトスカニーニは、見事な演奏を披露し観客を魅了します。この大成功を受け、彼は残りのシーズンも指揮者として採用され、わずか19歳にしてその才能と実力を世に知らしめました。
イタリアでのデビューは1886年11月、トリノでのことでした。母国において彼は数多くの指揮を執り、ルッジェーロ・レオンカヴァッロの『道化師』(1892年)やジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』(1896年)の世界初演、さらにリヒャルト・ワーグナーの『神々の黄昏』のイタリア初演(1895年)などを手がけました。
1896年、トスカニーニはミラノ・スカラ座で初めて指揮を執り、1898年にスカラ座の首席指揮者に選ばれたことで、その名声はさらに高まりました。
1987年にカルラ・デ・マルティーニと結婚。
夫妻の間には、長男ワルター、次男ジョルジョ(1906年にジフテリアで早世)、
長女ウォーリー、次女ワンダの4人の子供が生まれました。

ワンダは、父の協力者でもあったピアニストのウラディミール・ホロヴィッツと結婚しました。
Vladimir Horowitz と Wanda Toscanin
1908年、トスカニーニはスカラ座を去り、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者へと転身します。トスカニーニは、ヨーロッパで台頭するファシズムに猛烈に反対しました。1931年、イタリアでファシスト党の党歌『ジョヴィネッツァ』の演奏を拒否したために、平手打ちを食らうという事件が起きました。彼はドイツのバイロイト・ワーグナー音楽祭で、ドイツ人以外で初めて指揮を執った人物でしたが、1933年にはナチス政権への抗議として、この音楽祭への出席を拒否しました。こうしたエピソードの数々は、マエストロ・トスカニーニの信念の強さを物語っています。
1936年、トスカニーニはパレスチナへと渡ります。ポーランド人音楽家ブニスラフ・フーベルマンと協力し、ヨーロッパから逃れる手助けをしたユダヤ人音楽家たちのオーケストラを指揮するためでした。
1946年5月11日:解放後のスカラ座再建
1943年8月の激しい空爆によって破壊されたスカラ座が、記録的な速さで再建されました。
その再開の日、ミラノの人々は、復興した劇場の美しさに陶酔しながら、ボックス席、平土間、天井桟敷に至るまで、文字通り溢れんばかりに詰めかけました。
マエストロが登場すると、地響きのような歓声が沸き起こりました。拍手と叫び声はますます大きくなります。
指揮台に不動の姿勢で立った79歳のトスカニーニは、めずらしく笑みをこぼすと、すぐさま三色旗(イタリア国旗)の柄がついた指揮棒を上げ、演奏を開始しました。
妻カルラは1951年に死去。
トスカニーニが最後に生演奏の指揮を執ったのは、1954年4月4日のカーネギーホール、
NBC交響楽団とのコンサートでした。
1957年1月16日、アルトゥーロもまた、ニューヨークのリバーデイルにある自宅で89歳の生涯を閉じました。
逸話:
プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演(1926年)に際し、ムッソリーニ臨席のもとで演じることが決められていましたが、ファシスト党政権に反発するトスカニーニは、国歌と扱われていた党歌「青春の歌」の演奏を拒んだのです。このためにムッソリーニは初演に立ち会いませんでした。
未完に終わった「トゥーランドット」をプッチーニの弟子アルファーノが補作しましたが、トスカニーニは補作の直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降り、公演はそこで終了。トスカニーニはオケピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰宅の途につきました。


引用文献 :Arturo Toscanini Parmaitaly.com
次回2026年5月8日は「Enzo Ferrari」で