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【第6話】カラブリア州出身の著名人:その1 フランチェスコ・チレア(Francesco Cilea)

第6話:カラブリア州出身の著名人:その1

フランチェスコ・チレア(パルミ1866年 – ヴァラッツェ1950年)
イタリアが生んだ偉大な音楽家の一人であるフランチェスコ・チレアは、弁護士ジュゼッペと貴族フェリチタ・グリルロの間に生まれ、故郷の母方の祖父母の家で音楽の基礎を学びました。
彼は、幼い頃、ヴィラ・コムナーレでヴィンチェンツォ・ベッリーニの歌劇『ノルマ:Norma』の終幕を聴いた際に、音楽に対する最初の鮮烈な感動を覚えたと語っています。
ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院で学び、勤勉さと早熟な才能で頭角を現し、教育省から金メダルを授与され、「首席生徒教師」に任命されました。修了試験の最終課題として、エンリコ・ゴリシャーニ作の3幕の牧歌劇『ジーナ:Gina』を作曲しました。このオペラは1889年2月9日の夜、作者自身の指揮によって、音楽院の劇場で上演され成功を収めました。
1897年には、ミラノのリリコ劇場でチレアの3作目のオペラ『アルルの女:L’Arlesiana』が初演され、当時24歳のエンリコ・カルーソーがフェデリコ役を歌いました。特に「フェデリコの嘆き:Lamento di Federico」は、今日に至るまで、このオペラの記憶を生き生きと保ち続けています。
1902年、『アドリアーナ・ルクヴルール:Adriana Lecouvreur』が初めて上演されました。これは間違いなくフランチェスコ・チレアの最も有名なメロドラマであり、すぐに世界中で高く評価されました。この作品は、おそらく実際に起こったであろう、女優アドリアーナ・ルクヴルールが、主人公と同じくザクセン伯マウリッツィオに恋するブイヨン公爵夫人に毒殺されるという事件を描いており、後期ロマン派オペラとの親和性を示しています。
チレアは、1905年、アドリアーナ・ルクヴルールの成功後、出版社ソンツォーニョとの約束である新作オペラを作曲するために、リグーリアを旅し、故郷パルミのような静かで美しい場所を探していました。 彼はリヴィエラ・ディ・ポネンテの魅力的な小さな町、ヴァラッツェに心を奪われ、そこで中世を舞台とした『グロリア:Gloria』を作曲しました。この作品は、ミラノとナポリで何度か好意的に迎えられたものの、成功には至らず、失意のチレアは、オペラの作曲に終止符を打つことを決意しました。しかし、彼はヴァラッツェで数ヶ月間滞在した19世紀の邸宅を購入し、そこで生み出した不遇の作品のタイトルを冠して「ヴィラ・グロリア:Villa Gloria」と名付けました。
Villa Gloria
彼の作曲家としての苦悩は、地元の若い女性、有名な造船業者の娘であるローザ・ラヴァレッロとの出会いによって和らげられました。年齢差にもかかわらず、彼女は当時43歳だったマエストロの愛に応え、1909年に二人は結婚しました。チレアはこの妻について「私の人生の甘く、最愛の、かけがえのない、理想の伴侶」と語っています。チレアは1950年11月20日にヴァラッツェにて没し、生誕地パルミとヴァラッツェは、姉妹都市提携を結んでいます。
子供がいなかったチレア未亡人は、数十年の後(1970年)に亡くなり、ヴィラをS.I.A.E.(イタリア著作権協会)に、著作権収入をジュゼッペ・ヴェルディがミラノに設立した“リタイアした音楽家が住む高齢者施設:Casa di riposo per musicisti”に遺贈しました。レッジョ・カラブリアの音楽院と劇場はチレアを記念して命名され、彼の故郷パルミは彼の霊廟と旧市街の中心部の通りに彼の名を冠しました。
(S.I.A.E. ⇒ Società Italiana degli Autori ed Editori)
Conservatorio di musica Francesco Cilea
Il Teatro Comunale Francesco Cilea di Reggio Calabria

引用文献:https://www.comune.palmi.rc.it/index.php?action=index&p=228
次回4月28日は、「ジャンニ・ヴェルサーチ:Gianni Versace」です。

【第5話】サルデーニャ出身の著名人:その2 ガヴィーノ・レッダ(Gavino Ledda)

【第5話】サルデーニャ出身の著名人:その2

ガヴィーノ・レッダ(Gavino Ledda)
ガヴィーノ・レッダ(1938年、サルデーニャ島シリゴ生まれ)は、イタリアの作家、詩人であり、イタリア語とサルデーニャ語の学者です。彼は、自伝的作品「パードレ・パドローネ:Padre padrone」と、映画「イブリス:Ybris」の監督・主演で最もよく知られています。
レッダは父親のアブラモ(1908年-2007年)とマリア・アントニア(1914年-2013年)の間の羊飼いの家庭に生まれました。保守的な厳しい父親によって数週間の授業を受けただけで学校から連れ出され、成人するまで一切の教育を受ける機会を持てず、羊飼いとして働くことになります。太古からの牧畜世界であるサルデーニャ島で、父すなわち暴君・主人のもと、羊飼いとしての人生を歩み始めた幼い少年は、森の音、嵐、イナゴの襲来など大自然に鍛えられ、独自の世界観を獲得します。
ガヴィーノが読み書き能力を獲得したのは成人してからであり、兵役中に戦友の詩人フランコ・マネスカッキとの出会いを通じて、勉強を始め、独学で小学校の卒業資格を取得し、その後ローマ大学「ラ・サピエンツァ」で言語学の論文で文学の学位を取得しました。1970年、レッダはクルスカ学会に入会し、翌年にはカリアリ大学のロマンス文献学の助手に任命されました。
1975年、小説「パードレ・パドローネ」で、羊飼いから言語学者になった自身の自伝的物語を語りました。この作品は、過酷な幼少期から学問を通じて自己を解放するまでの物語を描いています。家族の束縛、貧困、そして知識への渇望という普遍的なテーマを扱っており、世界中で高く評価されています。
40カ国語に翻訳され、ヴィアレッジョ賞の新人小説部門を受賞し、その成功により1977年にタヴィアーニ兄弟によって映画化され、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと国際批評家連盟賞(FIPRESCI)を受賞しました。
1984年、レッダは「イブリス」というタイトルの映画を監督しました。
2020年、サルデーニャを舞台にしたサルヴァトーレ・メレウ監督の映画「アッサンドラ:Assandira」では主演を務め、第77回ヴェネツィア国際映画祭でコンペティション外で上映されました。この映画はジュリオ・アンジョーニの同名小説を原作としています。
ガヴィーノ・レッダは、サルデーニャの象徴であり、解放の象徴でもあります。
羊飼いとして生まれ、文盲から学位、言語学、クルスカ学会、詩へと進んだレッダは語ります。
「若者たちは私を慕ってくれます。私の本を読んで、多くのの若者が学業につき、そして今でも感謝してくれています。私の人生は変わっていません。私が書いたものは、私の物語に対する当然の行為でした。
文化はまだ "パードレ・パドローネ" のままです。」
ガヴィーノ・レッダは現在87歳ですが、若く、信じられないほどの活力を持っています。黒髪は「遺伝的なもの」であり、小説と映画の有名な「パードレ・パドローネ」である彼の父親は、99歳で亡くなったと、少し自慢げに強調しています。現在、レッダは、大学の教職を退き、故郷のシリゴに土地を購入して、農業と牧畜に携わっています。

引用文献:Gavino Ledda, scrittore italiano Da Wikipedia, l'enciclopedia libera
次回4月18日は、「フランチェスコ・チレーア:Francesco Cilea」 です。

【第4話】サルデーニャ島出身の著名人:その1 グラツィア・デレッダ (Grazia Deledda)

【第4話】サルデーニャ島出身の著名人:その1

グラツィア・デレッダは1871年にサルデーニャ島のヌーオロで、裕福な家庭の7人兄弟の5番目として生まれました。
小学校卒業後、独学で文学の勉強を続け、"La Ultima Moda"誌に作品を発表し始めました。彼女の小説は、故郷サルデーニャ島の社会的、文化的現実を克明に描いています。1888年から1890年にかけて、ローマ、サルデーニャ、特にミラノの様々な雑誌に寄稿し、1891年には、最初の小説 ”Fior di Sardegna (サルデーニャの花)”を出版し、その後、 ”Anime oneste (誠実な魂)、 ”La via del male (悪の道)、 ”Elias Portolu”、 ”Cenere (灰)”、”L’edera (蔦)など、数多くの小説を発表しました。

1899年10月には陸軍省の官吏であるパルミロ・マデサーニと出会い、1900年に結婚、その後ローマに移り住みました。
1926年、彼女は「故郷の隔絶された島での生活を立体的な形で描き出し、深い共感をもって普遍的な人間の関心事を扱った、高い理想に裏打ちされた作家としての力量」により、<ノーベル文学賞>を受賞しました。
スウェーデンのSelma Lagerlöfに次いで2人目の女性、そしてイタリア人女性としては唯一の受賞者となりました。
1927年12月10日土曜日、ストックホルムで栄誉ある賞を受賞するために数日前に夫と到着しました。この長く骨の折れる陸と海を越えて極寒の北部への旅は、ガブリエラ・ロサレヴァの映画「ストックホルムへの旅」で語られています。
ノルウェーの格安航空会社ノルウェー・エアシャトルは、ノーベル文学賞を受賞した彼女に敬意を表し、2019年初頭から1926年までボーイング737 MAX 8の尾翼の両側を、彼女の肖像画で飾りました。同社の航空機に登場する119番目の有名人、クリストフォロ・コロンブスとマルコ・ポーロに次ぐ、3番目のイタリア人となります。

彼女は晩年の小説の一つ "La chiesa della solitudine (孤独の教会)" の中で描いたのと同じ病に冒され、1936年8月15日にローマで亡くなりました。
死後、彼女の最も自伝的な作品”Cosima, quasi Grazia (グラツィアのようなコジマ)" が出版されました。天才的なサルデーニャの作家の遺体は、現在ヌーオロの"la chiesa della Solitudine"に安置されています。
グラツィア・デレッダの生誕150周年を記念して記念切手、記念硬貨も発行されました。

引用文献:
Grazia Deledda: scrittrice (quasi) per istinto
Racconti sardi. Grazia Deledda - Catartica Edizioni

次回4月8日は「ガヴィーノ・レッダ:Gavino Ledda」 です。

【第3話】シチリア島出身の著名人:その3  ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)

※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。

第3話 シチリア島出身の著名人:その3

ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)
(パレルモ, 1916 生~ローマ, 1991没)
20世紀イタリアで最も著名な作家であり知識人の一人です。彼女の作品の中でも、「ある家族の会話:Lessico famigliare」イタリア文学の宝石とも言われ、1963年に権威あるストレーガ賞を受賞しました。
ナタリアとレオーネ・ギンズブルグ
生涯と作品
1916年にパレルモで生まれたナタリア・レーヴィは、ユダヤ人の家庭に育ちました。父親は著名な大学教授であり科学者でしたが、ファシズム政権の台頭とともに、公然と反ファシズムの立場を取るようになり、一家はトリノに移り、彼女はそこで教育を受け始めました。
20世紀初頭に生まれた女性が、多様で深遠かつ確固たる作品を生み出すことは、ほとんど不可能に思われていましたが、彼女はそれを成し遂げ、小説だけでなく、演劇、エッセイ、評論、翻訳など、多岐にわたる分野で才能を発揮しました。特に、マルセル・プルーストの膨大で難解な作品「失われた時を求めて」の最初の巻を、21歳という若さでイタリアで初めて翻訳したことは特筆に値します。

1938年、彼女はイタリアの文学者であり、同じくユダヤ人であるレオーネ・ギンズブルグと結婚しました。彼女は夫の姓を名乗り、夫とともに作品を発表し、広く知られるようになりました。夫との交流を通じて、当時のトリノで最も重要な反ファシズム知識人たちと強く結びつき、レオーネが協力していたエイナウディ出版社周辺に集まって活動しました。
1940年、レオーネとナタリアは政権によって追放処分を受け、1944年、レオーネ・ギンズブルグはローマのレジーナ・コーエリ刑務所でナチス・ファシストによって尋問と拷問を受けた後、1944年2月4日の夜、妻ナタリアに最後の手紙を書き、数時間後の2月5日に息を引き取りました。

同年、アメリカ軍の解放後、彼女はローマに移り、エイナウディ出版社との協力関係を開始しました。
その後、トリーノに戻り、家族と再会しました。再婚して文学的にも最も多作な時期を迎えましたが、1969年にはその2番目の夫も亡くなり、その後、1980年代まで政治活動や文化活動に積極的に関わるようになりました。ナターリア・ギンズブルグは、ローマで1991年に亡くなりました。
ある家族の会話:Lessico famigliare
「家族の語彙」は、作者の幼少時代とレーヴィ家の出来事を描いた自伝的小説です。ギンズブルグは、家族の逸話や習慣を語っています。幼少時代の出来事、山で過ごした夏の休暇、父が几帳面に守っていた習慣などを通して、家族の性格を再構築し、優しくも皮肉を込めて家族の絆や個人の感情を繊細に描き出しています。
ユダヤ人であり反ファシストである家族の物語には、当然のことながら歴史的出来事が深く関わっています。家宅捜索、父親と3人の兄弟が受けた投獄など、反ファシストを公言する家族が歴史的事件から受けた重圧が描かれています。しかし、これらの出来事は、自由な形式で語られ、彼女の文学作品は、イタリアの歴史と文化を背景に、存在の具体的な意味を考察する機会を与えてくれます。


引用文献:L’ultima lettera di Leone Ginzburg a Natalia | Blog | Sul Romanzo
次回3月28日は「グラツィア・デレッダ:Grazia Deledda」です。

【第2話】シチリア島出身の著名人:その2  ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)

※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。

第2話 シチリア島出身の著名人:その2

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincnzo Bellinie)
(カターニア、1801年生 - プトー、1835年没)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、イタリアのベルカントオペラを代表する作曲家の一人で、「カターニアの白鳥 “Cigno catanese”という愛称で親しまれました。
ハインリヒ・ハイネは「フィレンツェの夜」の中で、ベッリーニの容姿を以下のように描写しています。
「彼は背が高く、すらりとした体型で… 顔は整っていて、やや面長で、青白いピンク色をしていた。髪は金色に近いブロンドで、まばらな巻き毛にしていた。額は非常に広く、気品があった。鼻は真っ直ぐで、目は青く、青白かった。口は均整が取れていて、顎は丸かった。彼の顔立ちには、どこか曖昧で、特徴がなく、乳白色のようなところがあり、その乳白色の顔には、時折、甘酸っぱい苦痛の表情が浮かんだ。」

1801年にカターニアで生まれたベッリーニは、父親は作曲家であり、父方の祖父、ヴィンチェンツォ・トビア・ニコラ・ベッリーニは、高名な宗教音楽の作曲家でした。幼い頃から音楽の才能を発揮し、1819年にはカターニア市から奨学金が与えられ、ナポリの王立音楽院に通いました。ナポリでの経験を経て、オペラ『海賊』(1827年)と『異国の女』(1829年)は、ミラノ・スカラ座で大成功を収め、その後5つのオペラを作曲し、特にミラノの観客のために書かれた『夢遊病の娘』と『ノルマ』(どちらも1831年に上演)が最も成功しました。

ベッリーニのキャリアと芸術における決定的な転換期は、イタリアを離れパリへ向かったことでした。ここで彼は、フレデリック・ショパン(1810年~1849年)をはじめとするヨーロッパで最も偉大な作曲家たちと交流し、彼の音楽言語は、常に変わらぬ旋律のインスピレーションを保ちながらも、新しい色彩とソリューションで豊かになりました。パリに住んでいたジョアキーノ・ロッシーニ(1792年2月29日~1868年)は、彼を自分の愛弟子と考えていました。

彼の最後のオペラ『清教徒』は、1835年に初演され、大成功を収めました。しかし、才能溢れるこの芸術家は、1830年初めに感染したアメーバ性腸感染症のため、1835年にフランスのプトーでわずか33歳で早逝しました。
学者のヌンツィオ・バルバガッロは、ベッリーニの死が発表されたとき、カターニアの住民は衝撃を受け、まるで近親者が亡くなったかのように、喪服を着て市立劇場での「ノルマ」の公演に出席したと書いています。

1. マッシモ・ベリーニ劇場:Teatro Massimo Vincenzo Bellini
マッシモベリーニ劇場は、南イタリアのシチリア島カターニアにあるヴィンチェンツォ・ベリーニ広場にあるオペラハウスです。ベッリーニにちなんで名付けられ、1890年5月31日に作曲家の傑作「ノルマ」が演奏されて発足しました。
2. 1985年のイタリア銀行発行の5000リラ紙幣。
表面にはヴィンチェンツォ・ベッリーニの肖像画、背景には大きなオペラハウスが描かれています。 裏面には、ノルマを連想させる木のそばに立つ女性像が描かれています。


3. なぜ 「Pasta alla Norma」?
ベッリーニの重要なオペラの名前が、カターニアのパスタ料理の名前に使われています。
シチリア演劇の劇作家、ニーノ・マルトーリオが、ある日、トマトソース、揚げナス、塩リコッタチーズを使ったパスタ料理を出されたとき、余りの美味しさに「これはまさにノルマだ!」と叫び、その素晴らしさをベッリーニのオペラに例えたことに由来すると言われています。



引用文献:Balarm.it storia e tradizioni
次回3月18日は「ナタリア・ギンズブルグ: Natalia Ginzburg」です。

【第1話】シチリア島出身の著名人:その1 アルキメデス(Archimede)

※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。

第1話 シチリア島出身の著名人:その1

1) アルキメデス(Archimede)
(シラクサ、紀元前287頃生~シラクサ、紀元前212年頃没)
数学、物理学、発明の分野で卓越した業績を残した古代ギリシャの科学者。
シラクサの住民たちは、ある日、彼らの偉大な同郷人であるアルキメデスが通りを狂ったように走り回っているのを見て非常に驚きました。彼は走りながら「エウレカ!エウレカ(Eureka! Eureka!!)」と叫んでいたのです。ギリシャ語で「見つけた!見つけた!」という意味です。
この科学者は一体何を見つけたのでしょうか?何が起こったのでしょう?そう、彼は確かに何かを見つけたのです!入浴中に、自分の体が浸かっている水の量が自分の体の体積と同じであるために、自分が浮いていることに気づいたのです。今では周知のことですが、彼以前には、誰もこの現象に気づいていませんでした。だからこそ、彼はとても喜んでいたのです。

古代の最も偉大な科学者の1人であるアルキメデスは、紀元前287年から212年頃まで、シラクサの歴史の中で最も悲劇的な時代に生きていました。アルキメデスは、愛する街の陥落を防ぐために、多くの兵器を考案しました。彼は「ウストリ(ustori)」と呼ばれる奇妙な鏡を作り、太陽光線を集めて敵の船に照射し、燃やしたのです。しかしながら最終的に街は陥落し、ローマ人たちによって恐ろしい略奪を受けました。
ところが、ローマの執政官マルケルスは、兵士たちにアルキメデスを尊重し、彼の髪の毛一本も傷つけないように命じていました。しかし、この偉大な人物は、高齢で耳が聞こえず、爆弾や戦争の音を聞くことができず、複雑な機械の中で研究に没頭していました。そこで、兵士は彼がアルキメデスであるとは知らずに殺してしまいました。
アルキメデスを大切に思っていた執政官マルケルスの悲しみは大きく、偉大な科学者アルキメデスのために記念碑を建てました。
1. ラファエロの「アテネの学堂」に描かれたアルキメデス?
ルネサンス期の巨匠、ラファエロが描いた「アテネの学堂」は、バチカン美術館で見ることができる有名な絵画です。この作品には、古代ギリシアの哲学者や科学者が描かれていて、哲学者プラトンとアリストテレスは、構図の中心に位置しています。その中に手前でコンパスを使って何かを証明している数学者がいます。真実は定かではありませんが、この人物を、アルキメデスだと考える人もいれば、ユークリッドだと考える人もいます。

2. 円周率の近似値を最初に求めたのはアルキメデス
アルキメデスは、円周率(π)の近似値を最初に科学的に求めた人物としても知られています。彼は、円に内接する多角形と外接する多角形の周長を計算することで、円周率の範囲を絞り込みました。
現在では、円周率は3.14159...と無限に続く数であることがわかっていますが、アルキメデスが求めた近似値は、今日の数学においても重要な意味を持っています。ちなみに、3月14日は円周率の日とされており、3.1415の近似に合わせるために、午後3時15分からこの日を祝う人々もいます。

引用文献:Viaggi e Vacanze in Italia - IlComuneInforma
次回3月8日は「ヴィンチェンツォ・べッリーニ: Vincenzo Bellini」です。