2025 年 6 月 8 日公開
【第11話】カンパーニャ州出身の著名人:その2
エンリーコ・カルーソ (Enrico Caruso)
第11話:カンパーニァ州出身の著名人: その2
史上最も偉大なテノール歌手、イタリア人エンリコ・カルーソ(1873~1921)
【第10話】で取り上げた不朽のコメディアン「トト」(ナポリ生まれ、1898年2月15日)と並んで、同様に伝説的なエンリーコ・カルーソを忘れることはできません。彼は1873年2月25日にナポリで生まれ、クラシック音楽の歴史において最も偉大なテノールの一人とされています。彼の誕生日はトトの誕生日と数日違いであり、二人の芸術家はナポリのドガネッラ地区、ヴィア・ヌオーヴァ・デル・カンポにあるサンタ・マリア・デル・ピアント墓地に、僅か数メートル離れた場所に埋葬されています。
エンリコ・カルーソはナポリの人口の多いサン・カルロ・アッラレーナ地区で、貧しい家庭に生まれました。父マルチェッリーノ・カルーソは金属加工の労働者で、母アンナ・バルディーニは清掃婦でした。普通学校に通った後、10歳で父と共に鋳物工場で働きましたが、母の勧めで夜間学校に入学し、そこで絵の才能があることに気づき、働いていた工場の噴水の設計を始めました。その間、彼の声とその才能が評判となり、結婚式や葬儀の際に教会の聖歌隊で歌い、いくつかの演劇にも参加するようになりました。
1896年、歌の師であるヴィンチェンツォ・ロンバルディとの出会いが決定的でした。ロンバルディは彼を鍛え上げ、並外れたテノール歌手に育てました。ロンバルディは夏のシーズンにカルーソをリヴォルノに連れて行きました。こうしてカルーソのキャリアは始まり、当時の最も権威ある劇場で次々と勝利を収めていきました。
ここでカルーソは、既婚で子供を持つソプラノ歌手、アダ・ボッティ・ジャケッティと出会いました。二人の関係は11年間続き、その間に二人の子供、ロドルフォ(1898年–1951年)とエンリコ・ジュニア(1904年–1987年)が生まれました。ところがアダは二人の運転手であるチェーザレ・ロマーティと駆け落ちし、カルーソの元を去りました。
※「人生は私に多くの苦しみをもたらす。何も経験したことのない者は歌うことができない。」(エンリコ・カルーソー)
1800年代末から1900年代初頭にかけての何百万人もの同胞と同様に、エンリコも移民となりました。彼は成功した移民として、その声はアメリカを魅了しました。また、他の歌手たちが新しい技術に懐疑的だったのに対し、カルーソはレコードの芸術的および経済的な可能性を直感していました。
1909年、エンリコ・カルーソは22曲のナポリ民謡を集めたアルバムをリリースしました。その中には、ジャケッティとの破局後の彼の心境を反映した「Core'ngrato(つれない心):カタリ・カタリ 」も含まれています。
イギリスのレコード会社、グラモフォン&タイプライター社のために録音した10枚のオペラアリアのレコードは、彼を世界中に知らしめ、出演契約とギャラを増やしました。ルッジェーロ・レオンカヴァッロのオペラ『道化師』からのアリア「衣装をつけろ:Vesti la giubba」は、アメリカのビクターレーベルから発売され、100万枚の売上を突破した最初のレコードとなりました。「イタリアの声」は世界中で求められ、称賛されました。
1909年、彼は肥厚性喉頭炎のためミラノで手術を受けました。その手術は一時的には彼のキャリアに影響を与えず、世界ツアーを続けることができ、戦時中には慈善公演も行いました。彼は非常に寛大で、困っている同胞を助け、戦争中は兵士たちのためにコンサートを開きました
1918年8月28日、彼は良家の米国人女性ドロシー・ベンジャミン(1893年–1955年)と結婚し、娘グロリア(1919年–1999年)をもうけました。
北米での長期ツアーの後、1920年にテノールの健康状態は悪化し始めました。クリスマスの日になって初めて、耐えがたい痛みが、感染性胸膜炎と診断されました。ソレントからナポリへ、そしてローマへ向かう途中で、カルーソは1921年8月2日、48歳で亡くなりました。その時、妻、息子のロドルフォ、弟のジョヴァンニ、そして彼を愛するすべての人々が付き添っていました。
この画像は、ナポリのサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会で行われたエンリコ・カルーソ(1873-1921)の葬儀の様子です。葬列は教会へ向かう途中に王宮の前を通っています。
カルーソの生涯は1951年のハリウッド映画『歌劇王カルーソ』(マリオ・ランツァ主演)で映画化されました。
引用文献:Personaggio storico「Enrico Caruso」
次回6月18日は「Sophia Loren」です。
2025 年 5 月 28 日公開
【第10話】カンパーニャ州出身の著名人:その1 アントーニオ・デ・クルティス「トト」(Antonio De Curtis “Totò”)
第10話:カンパーニァ州出身の著名人: その1
イタリア最大のコメディアンアン「トト」(ナポリ 1898~1967)
1921年にようやく結婚できたジュゼッペ・デ・カーティス公と若いアンナ・クレメンテの非嫡出子として、トトは1898年にナポリの有名なサニタ地区で生まれました。彼はイタリアの演劇と喜劇映画の最も偉大な代表者の一人と見なされており、50のコメディ演劇と97の映画に出演しました。トトはテレビ俳優としても活躍し、9つのテレビシリーズに出演したほか、劇作家、詩人、作詞家、作曲家、歌手としても活躍しました。
青年時代はナポリのサニタ地区で、父親には認知されないまま極度の貧困の中で過ごしました。学業にはあまり熱心ではなく、小学校4年生の頃からすでに演劇に惹かれていましたが、3年生に落第してからは、冗談や寸劇で同級生を楽しませ始めました。小学校卒業後、チミノ学院で教師から顔面を強打されたことが原因で顎と鼻に永久的な変形を引き起こし、後に彼のコミカルな「仮面」を特徴づけるものとなりました。
後期中等学校の卒業資格を得ることなく学業を放棄し、15歳で「クレメント」という芸名で郊外の小さな劇場でパフォーマンスを始め、彼の風刺的なスケッチや物真似で名を馳せました。1930年代には、ヴァラエティショーに専念し、即興や言葉遊びを始めました。1933年、35歳の時に、テルティヴェリのフランチェスコ・マリア・ガリアルディ・フォーカス侯爵に養子として迎えられました。1937年に映画デビューし、1938年には左目を失明しましたが、このことは秘密にされ、家族だけが知っていました。彼はイタリアの主要な俳優や監督と仕事をし、批評家からは必ずしも好意的に受け入れられなかったものの、大衆的な大成功を収めました。
Totò clown a prescindere
チャーリー・チャップリンやバスター・キートンといった世界の喜劇映画のアイコンと比較されるトトは、今日でもイタリアで最も人気のあるコメディアンとして称えられています。
「気分が悪い、ナポリに連れて行ってくれ」これは、彼の最愛の街に向けられた最後の言葉でした。
9つの抱腹絶倒のテレビ映画【Tutto Totò 】 1967:
トトの死後数日して、国立放送で「Tutto Totò」が放送されました。これは、RAIが制作した9つのテレビ映画で、「笑いの王子」が彼の最も幸運なコメディレパートリーのキャラクターを再演したものです。オーケストラの指揮者から見習いの理髪師、マネキンになったドン・ジョヴァンニ、寝台車の旅行者まで。これらの9つのエピソードは、時を経てトトの最も成功したギャグとスケッチの集大成となっています。演出はダニエレ・ダネッツァが担当しました。
忘れられないコラボレーション :
キャリアを通じて、トトはフェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ソフィア・ローレンなど、当時の最も偉大な芸術家たちと仕事をするという特権に恵まれました。これらの映画界の巨匠たちとのコラボレーションは、忘れられない傑作を生み出しました。
1967年に亡くなった後も、トトは世界中の何百万人もの人々に愛され、高く評価され続けています。彼の生き生きとした精神と時代を超越したユーモアは、彼をイタリア文化の不朽のアイコンにしています。
引用文献:7 Curiosità su Totò: Scopriamo il Genio della Comicità Italiana
次回6月8日は「Enrico Caruso」です。
2025 年 5 月 18 日公開
【第9話】プーリア州出身の著名人:その2 ロドルフォ・ヴァレンティーノ(Rodolfo Valentino)
第9話:プーリア州出身の著名人:その2
ロドルフォ・ヴァレンティーノ(Rodolfo Valentino)
ロドルフォ・ヴァレンティーノ(カステッラネータ、1895年-ニューヨーク、1926年)、または単にルディ(Rudy) は、1900年代初頭の無声映画と白黒映画における偉大なスターの一人であり、その時代のセックスシンボルとしても知られ、「ラテン・ラバー:Latin Lover 」という異名を与えられました。
彼の演技スタイルは、チャーリー・チャップリンをはじめとする当時の映画界の巨匠たちに高く評価されました。
彼は、イタリア人の父ジョヴァンニ・グリエルミ(元騎兵隊大尉の獣医)とフランス人の母マリー・ガブリエル・バルダンとの間に、4人兄弟の3番目として、ターラント県カステッラネータで生まれました。
並外れた美貌を持つルドルフ・ヴァレンティーノは、磁石のように人を惹きつけ、捉えどころのない魅力を持っており、カサノヴァやドン・ジョヴァンニのような、ややステレオタイプで時代遅れのモデルとは全く異なり、極めて現代的な女性の憧れの的となりました。映画がまだ初期の段階にあった時代において、彼のこの魅力は、疑いようのない俳優としての才能に加えて、彼を生ける伝説にしたのです。
カステッラネータで小学校に通い、その後(1904年)ターラント、そして(1906年)ペルージャで学びました。父の死と経済的および家庭的な問題により、ONAOSI(イタリア国立衛生孤児援護事業団)の寄宿学校に入り3年間在籍しました。その後、ジェノヴァのサンティラーリオの「ベルナルド・マルサーノ」農業専門学校を卒業し、そしてターラントに戻り数ヶ月滞在した後、パリへ休暇に出かけました。
ターラントに戻った後、彼は夢を叶えるためにアメリカへ渡ることを決意しました。ターラント出身の音楽家、ドメニコ・サヴィーノがアメリカで確固たる地位を築いていたことも、彼がアメリカで成功したいと考えた理由の一つでした。ロドルフォはドメニコの妹と親しく、1913年に貨物船クリーブランド号でアメリカへ向かいました。
12月23日にニューヨークに到着し、最初は庭師として、次にウェイターとして働きました。そこでドメニコ・サヴィーノと出会い、燕尾服を贈られました。彼はナイトクラブ・マキシムに行き、そこでタクシーダンサー、つまり有料のダンスパートナーとして雇われました。こうして女性客からの気前の良いチップのおかげで、経済的な苦境を脱することができました。
その後、カステッラネータ出身のこのダンサーはサンフランシスコに移りました。オペレッタ劇団に雇われ、そこでアメリカ人俳優で無声映画のスターであったノーマン・ケリーと出会い、ハリウッドへの移住を勧められました。そこで彼はエキストラとしていくつかの映画に出演しました。1921年、彼は「黙示録の四騎士」でフリオ・デノワイエ役を演じ、ついにその地位を確立しました
こうして彼は最初の大衆スターの一人、最初のセクシーシンボルの一人となり、その並外れた美貌と磁力的な魅力によって彼のファッションスタイルを「ロドルフォ・ヴァレンティーノ風の服、ロドルフォ・ヴァレンテーノ風の髪型、ロドルフォ・ヴァレンティーノ風のブーツ」として決定づけました。俳優としての彼の役割、つまり彼を有名にしたのは、その視線「ロドルフォ・ヴァレンティーノ風の視線」で、相手役の女性を魅了するロマンチックなヒーローとなったのです。
ロドルフォ・ヴァレンティーノは、1926年8月23日にニューヨークのポリクリニック病院で腹膜炎のため亡くなりました。ヴァレンティーノの遺体がキャンベル葬儀社で荘厳に安置されている間、ニューヨークの街路は、かつてない集団的な熱狂の場となりました。10万人の群衆が、この偉大な恋人を最後に一目見ようと激しく争いました。
彼の墓は今もなお、花束で飾られています。命日には、喪服を着た女性たちの行列と、有名な「黒衣の貴婦人」が現れます。デロングレ公園には、彼の栄誉を称える像(ハリウッドで映画スターのために建てられた唯一の像)「憧憬」が建てられました。
そして、彼がニューヨークで亡くなった1986年、無声映画の時代は終わりました。カステッラネータは、映画とショービジネスの愛好家たちが地域全体から集まる映画館で、ロドルフォ・ヴァレンティーノ賞を設けて彼を偲んでいます。
昭和3年(1928年):この時期、日本ではロドルフォ・ヴァレンティーノが、整髪料丹頂の広告モデルとして起用されました。
引用文献:Rodolfo Valentino: l’emigrante pugliese più conosciuto nel mondo
次回5月28日は「Il più grande comico italiano Totò」です。
2025 年 5 月 8 日公開
【第8話】プーリア州出身の著名人:その1 ドメニコ・モドゥーニョ(Domenico Modugno)
第8話:プーリア州出身の著名人:その1 ドメニコ・モドゥーニョ(Domenico Modugno)
Il Signor Volare : Domenico Modugno : Mr.ヴォラーレ ドメニコ・モドゥーニョ(1958-1994)
ドメニコ・モドゥーニョの歌、特に1958年の「ヴォラーレ」 は、20世紀の50年代から60年代にかけてのイタリアの経済成長期を彩りました。その解放的な力強さと、広がりを持つ旋律によって、それまで軽んじられていたジャンルに品格を与え、イタリアのポピュラーソングを詩的な作品の地位へと高めることに貢献しました。
1928年にバーリ県のポリニャーノ・ア・マーレで生まれたドメニコ・モドゥーニョは、歌手、映画・舞台俳優として活躍し、イタリアの音楽界における最初のシンガーソングライターの一人とされています。彼の絶大な人気は、イタリアのポピュラーソング史上最大のヒット曲である「Nel blu dipinto di blu」(青く染まった青の中で) ――フランコ・ミリアッチとの共作で、すぐに「ヴォラーレ」(飛ぶ) という愛称で呼ばれるようになりました――によって確立されました。この曲で、彼は1958年のサンレモ音楽祭で、その歌詞と歌唱によって優勝しました。
歌の言葉の中に現れる夢「僕の手と顔は青く染まった/すると突然、風にさらわれた」は、マルク・シャガールのような画家の絵画的な雰囲気を想起させます。 それは大衆音楽の世界における真の革新であり、決定的な転換点となりました。「ヴォラーレ」はアメリカで2つのグラミー賞を受賞し、海外におけるイタリアのポピュラーソングの確立に貢献しました。
モドゥーニョを特別な存在にしたのは、1950年代にローマの国立映画実験センターで学び、1957年にはエドゥアルド・デ・フィリッポの舞台劇「フィロメーナ・マルトゥラーノ」で共演するなど、長年にわたって培われた俳優としての才能です。
1960年代初頭、サンレモ音楽祭はモドゥーニョにとって特別な舞台となりました。1959年に「Piove」(ピオヴェ、Ciao, ciao bambinaとしても知られる)で再び優勝した後、1960年には「Libero」(自由)で2位となり、1962年には「Addio... addio」(さよなら…さよなら)、そして1966年には「Dio, come ti amo!」(神様、なんてあなたを愛しているのでしょう!)で優勝しました。1975年には、強いメロドラマ的な要素を持つ(そしてモドゥーニョ自身による自虐的なパロディも存在する)「Piange il telefono」(電話が泣いている)が商業的に大成功を収めました。
モドゥーニョは映画の世界でも活躍し、アレッサンドロ・ブラゼッティ監督の『ヨーロッパの夜』(1959年)、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『最後の審判』(1961年)、ルイジ・コメンチーニ監督の『Lo scopone scientifico』(1972年)などの映画に出演しました。1966年には、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『大きな鳥と小さな鳥』のオープニングタイトルで、エンニオ・モリコーネの音楽に合わせて歌いました。
1991年に病に倒れましたが、それでも1993年には息子のマッシモと共にアルバム「Delfini」(イルカたち)を録音しました。彼は1994年8月6日、ランペドゥーサ島の海に面した自宅で亡くなりました。
引用文献:https://www.treccani.it/enciclopedia/domenico-modugno_(Enciclopedia-dei-ragazzi)/
次回5月18日は、「Rodolfo Valentino」です。
2025 年 4 月 28 日公開
【第7話】カラブリア州出身の著名人:その2 ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace)
第7話:カラブリア州出身の著名人:その2
ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace:1946-1997)
「レッジョ・カラブリアは、私の人生の物語が始まった王国です。母のオートクチュールのプティックがあり、幼い頃、ホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』、『アエネイス』を鑑賞し始め、マグナ・グラエキアの芸術に触れ始めた場所なのです。」
La Medusa di Versace, simbolo del legame profondo della Maison con la Calabria
メドゥーサは、ヴェルサーチェとメゾンの故郷であるカラブリアとの強い絆を物語るシンボルです。
1992年のインタビューでジャンニが語ったその物語は、カラブリアの州都で1946年12月2日に始まりました。母のフランカはプロの仕立て屋で、レッジョ大聖堂の近くにイタリアでも有数の仕立て屋を所有していました。ジャンニはそこでしばらく働いた後、高等学校を中退し、1972年にミラノに移り、デザイナーとして働き始めました。
1975年、彼はコンプリチェのために革製の服で構成された初のコレクションを発表し、1978年3月28日、兄のサントとクラウディオ・ルティと共に自身のブランドを設立した後、自身の名前を冠した初のコレクションを発表しました。ミラノのパラッツォ・デッラ・ペルマネンテで発表されたこの最初のコレクションは、すでにジャンニの好みと大胆さを示していました。プリント、ドレープ、そして金属的な要素は、当時の慣習を打ち破り、ジャンニと彼の生まれたばかりのファッションハウスをイタリアだけでなく世界のファッション界の頂点へと押し上げました。
美術史とギリシャ神話に情熱を注いでいたジャンニは、ブランドのロゴとしてゴルゴン三姉妹の一人であるメドゥーサを選びました。神話によると、魅惑的なメドゥーサはその並外れた美しさによってポセイドンを誘惑し、嫉妬深いアテナの怒りを買い、恐ろしい蛇の髪を持つ怪物に変えられ、燃えるような瞳と目を合わせた者は誰でも石に変えてしまうとされました。
ジャンニのキャリアはオートクチュールに留まらず、演劇や音楽ともコラボレーションしました。リヒャルト・シュトラウスの『ヨセフ伝説』、マーラーの『リート・フォン・デア・エルデ』、ドニゼッティの『ドン・パスクワーレ』、ベジャールの『ディオニュソス』の衣装をデザインしました。
また、マドンナやエルトン・ジョンといった国際的な著名人の衣装も手がけたほか、イギリスの故ダイアナ妃も彼のデザインを寵愛していました。
また、「一般の女性像とはかけ離れた痩せすぎで病的なモデルを起用するのではなく、“生きた女性”に自分の服を着て欲しい」と語っていたジャンニは、シンディ・クロフォード、ナオミ・キャンベル、カーラ・ブルーニらが活躍した1990年代の世界的なスーパーモデルブームの立役者でもあるのです。
デザイン、技術、そして生地の研究において絶対的な革新者であり、存在しない生地は自ら作り出しました。その一例が1982年のコレクションで、ジャンニは非常に軽く柔らかい金属製のメッシュであるオロトンを選び、それによって真の傑作を生み出しました。1980年代後半のシルクシャツに施されたバロック風のカラフルなプリント、1990年代を特徴づけた黒とボンデージ、そしてカラブリア出身のデザイナーの独特な特徴である金属的な要素は、彼の早すぎる悲劇的な死の直前のジャンニの遺産を代表しています。
1997年7月15日、真昼のマイアミビーチの別荘の入り口の階段で、ジャンニはアンドリュー・クナナンによって2発の銃弾で暗殺され、時代を超越した、ファッション史における決定的なアイコンの生涯に終止符が打たれました。
「真の芸術家は職人だと気づきました。
自分が仕立て屋ではないと言うデザイナーたちには笑ってしまいます。
確かに、彼らの服を見ればすぐにわかります。
私の考えでは、真の芸術家とは自分の手で物を作る人です。
したがって、デザイナーは仕立て屋でなければなりません。」
ジャンニ・ヴェルサーチェ
引用文献:https://www.collater.al/gianni-versace-storia-style/
次回5月8日は、「Il Signor Volare : Domenico Modugno 」です。
2025 年 4 月 18 日公開
【第6話】カラブリア州出身の著名人:その1 フランチェスコ・チレア(Francesco Cilea)
第6話:カラブリア州出身の著名人:その1
フランチェスコ・チレア(パルミ1866年 – ヴァラッツェ1950年)
イタリアが生んだ偉大な音楽家の一人であるフランチェスコ・チレアは、弁護士ジュゼッペと貴族フェリチタ・グリルロの間に生まれ、故郷の母方の祖父母の家で音楽の基礎を学びました。
彼は、幼い頃、ヴィラ・コムナーレでヴィンチェンツォ・ベッリーニの歌劇『ノルマ:Norma』の終幕を聴いた際に、音楽に対する最初の鮮烈な感動を覚えたと語っています。
ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院で学び、勤勉さと早熟な才能で頭角を現し、教育省から金メダルを授与され、「首席生徒教師」に任命されました。修了試験の最終課題として、エンリコ・ゴリシャーニ作の3幕の牧歌劇『ジーナ:Gina』を作曲しました。このオペラは1889年2月9日の夜、作者自身の指揮によって、音楽院の劇場で上演され成功を収めました。
1897年には、ミラノのリリコ劇場でチレアの3作目のオペラ『アルルの女:L’Arlesiana』が初演され、当時24歳のエンリコ・カルーソーがフェデリコ役を歌いました。特に「フェデリコの嘆き:Lamento di Federico」は、今日に至るまで、このオペラの記憶を生き生きと保ち続けています。
1902年、『アドリアーナ・ルクヴルール:Adriana Lecouvreur』が初めて上演されました。これは間違いなくフランチェスコ・チレアの最も有名なメロドラマであり、すぐに世界中で高く評価されました。この作品は、おそらく実際に起こったであろう、女優アドリアーナ・ルクヴルールが、主人公と同じくザクセン伯マウリッツィオに恋するブイヨン公爵夫人に毒殺されるという事件を描いており、後期ロマン派オペラとの親和性を示しています。
チレアは、1905年、アドリアーナ・ルクヴルールの成功後、出版社ソンツォーニョとの約束である新作オペラを作曲するために、リグーリアを旅し、故郷パルミのような静かで美しい場所を探していました。 彼はリヴィエラ・ディ・ポネンテの魅力的な小さな町、ヴァラッツェに心を奪われ、そこで中世を舞台とした『グロリア:Gloria』を作曲しました。この作品は、ミラノとナポリで何度か好意的に迎えられたものの、成功には至らず、失意のチレアは、オペラの作曲に終止符を打つことを決意しました。しかし、彼はヴァラッツェで数ヶ月間滞在した19世紀の邸宅を購入し、そこで生み出した不遇の作品のタイトルを冠して「ヴィラ・グロリア:Villa Gloria」と名付けました。
Villa Gloria
彼の作曲家としての苦悩は、地元の若い女性、有名な造船業者の娘であるローザ・ラヴァレッロとの出会いによって和らげられました。年齢差にもかかわらず、彼女は当時43歳だったマエストロの愛に応え、1909年に二人は結婚しました。チレアはこの妻について「私の人生の甘く、最愛の、かけがえのない、理想の伴侶」と語っています。チレアは1950年11月20日にヴァラッツェにて没し、生誕地パルミとヴァラッツェは、姉妹都市提携を結んでいます。
子供がいなかったチレア未亡人は、数十年の後(1970年)に亡くなり、ヴィラをS.I.A.E.(イタリア著作権協会)に、著作権収入をジュゼッペ・ヴェルディがミラノに設立した“リタイアした音楽家が住む高齢者施設:Casa di riposo per musicisti”に遺贈しました。レッジョ・カラブリアの音楽院と劇場はチレアを記念して命名され、彼の故郷パルミは彼の霊廟と旧市街の中心部の通りに彼の名を冠しました。
(S.I.A.E. ⇒ Società Italiana degli Autori ed Editori)
Conservatorio di musica Francesco Cilea
Il Teatro Comunale Francesco Cilea di Reggio Calabria
引用文献:https://www.comune.palmi.rc.it/index.php?action=index&p=228
次回4月28日は、「ジャンニ・ヴェルサーチ:Gianni Versace」です。
2025 年 4 月 8 日公開
【第5話】サルデーニャ出身の著名人:その2 ガヴィーノ・レッダ(Gavino Ledda)
【第5話】サルデーニャ出身の著名人:その2
ガヴィーノ・レッダ(Gavino Ledda)
ガヴィーノ・レッダ(1938年、サルデーニャ島シリゴ生まれ)は、イタリアの作家、詩人であり、イタリア語とサルデーニャ語の学者です。彼は、自伝的作品「パードレ・パドローネ:Padre padrone」と、映画「イブリス:Ybris」の監督・主演で最もよく知られています。
レッダは父親のアブラモ(1908年-2007年)とマリア・アントニア(1914年-2013年)の間の羊飼いの家庭に生まれました。保守的な厳しい父親によって数週間の授業を受けただけで学校から連れ出され、成人するまで一切の教育を受ける機会を持てず、羊飼いとして働くことになります。太古からの牧畜世界であるサルデーニャ島で、父すなわち暴君・主人のもと、羊飼いとしての人生を歩み始めた幼い少年は、森の音、嵐、イナゴの襲来など大自然に鍛えられ、独自の世界観を獲得します。
ガヴィーノが読み書き能力を獲得したのは成人してからであり、兵役中に戦友の詩人フランコ・マネスカッキとの出会いを通じて、勉強を始め、独学で小学校の卒業資格を取得し、その後ローマ大学「ラ・サピエンツァ」で言語学の論文で文学の学位を取得しました。1970年、レッダはクルスカ学会に入会し、翌年にはカリアリ大学のロマンス文献学の助手に任命されました。
1975年、小説「パードレ・パドローネ」で、羊飼いから言語学者になった自身の自伝的物語を語りました。この作品は、過酷な幼少期から学問を通じて自己を解放するまでの物語を描いています。家族の束縛、貧困、そして知識への渇望という普遍的なテーマを扱っており、世界中で高く評価されています。
40カ国語に翻訳され、ヴィアレッジョ賞の新人小説部門を受賞し、その成功により1977年にタヴィアーニ兄弟によって映画化され、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと国際批評家連盟賞(FIPRESCI)を受賞しました。
1984年、レッダは「イブリス」というタイトルの映画を監督しました。
2020年、サルデーニャを舞台にしたサルヴァトーレ・メレウ監督の映画「アッサンドラ:Assandira」では主演を務め、第77回ヴェネツィア国際映画祭でコンペティション外で上映されました。この映画はジュリオ・アンジョーニの同名小説を原作としています。
ガヴィーノ・レッダは、サルデーニャの象徴であり、解放の象徴でもあります。
羊飼いとして生まれ、文盲から学位、言語学、クルスカ学会、詩へと進んだレッダは語ります。
「若者たちは私を慕ってくれます。私の本を読んで、多くのの若者が学業につき、そして今でも感謝してくれています。私の人生は変わっていません。私が書いたものは、私の物語に対する当然の行為でした。
文化はまだ "パードレ・パドローネ " のままです。」
ガヴィーノ・レッダは現在87歳ですが、若く、信じられないほどの活力を持っています。黒髪は「遺伝的なもの」であり、小説と映画の有名な「パードレ・パドローネ」である彼の父親は、99歳で亡くなったと、少し自慢げに強調しています。現在、レッダは、大学の教職を退き、故郷のシリゴに土地を購入して、農業と牧畜に携わっています。
引用文献:Gavino Ledda, scrittore italiano Da Wikipedia, l'enciclopedia libera
次回4月18日は、「フランチェスコ・チレーア:Francesco Cilea」 です。
2025 年 3 月 28 日公開
【第4話】サルデーニャ島出身の著名人:その1 グラツィア・デレッダ (Grazia Deledda)
【第4話】サルデーニャ島出身の著名人:その1
グラツィア・デレッダは1871年にサルデーニャ島のヌーオロで、裕福な家庭の7人兄弟の5番目として生まれました。
小学校卒業後、独学で文学の勉強を続け、"La Ultima Moda"誌に作品を発表し始めました。彼女の小説は、故郷サルデーニャ島の社会的、文化的現実を克明に描いています。1888年から1890年にかけて、ローマ、サルデーニャ、特にミラノの様々な雑誌に寄稿し、1891年には、最初の小説 ”Fior di Sardegna (サルデーニャの花)” を出版し、その後、 ”Anime oneste (誠実な魂)、 ”La via del male (悪の道)、 ”Elias Portolu”、 ”Cenere (灰)”、”L’edera (蔦)など、数多くの小説を発表しました。
1899年10月には陸軍省の官吏であるパルミロ・マデサーニと出会い、1900年に結婚、その後ローマに移り住みました。
1926年、彼女は「故郷の隔絶された島での生活を立体的な形で描き出し、深い共感をもって普遍的な人間の関心事を扱った、高い理想に裏打ちされた作家としての力量」により、<ノーベル文学賞> を受賞しました。
スウェーデンのSelma Lagerlöfに次いで2人目の女性、そしてイタリア人女性としては唯一の受賞者 となりました。
1927年12月10日土曜日、ストックホルムで栄誉ある賞を受賞するために数日前に夫と到着しました。この長く骨の折れる陸と海を越えて極寒の北部への旅は、ガブリエラ・ロサレヴァの映画「ストックホルムへの旅」で語られています。
ノルウェーの格安航空会社ノルウェー・エアシャトルは、ノーベル文学賞を受賞した彼女に敬意を表し、2019年初頭から1926年までボーイング737 MAX 8の尾翼の両側を、彼女の肖像画で飾りました。同社の航空機に登場する119番目の有名人、クリストフォロ・コロンブスとマルコ・ポーロに次ぐ、3番目のイタリア人 となります。
彼女は晩年の小説の一つ "La chiesa della solitudine (孤独の教会)" の中で描いたのと同じ病に冒され、1936年8月15日にローマで亡くなりました。
死後、彼女の最も自伝的な作品”Cosima, quasi Grazia (グラツィアのようなコジマ)" が出版されました。天才的なサルデーニャの作家の遺体は、現在ヌーオロの"la chiesa della Solitudine"に安置されています。
グラツィア・デレッダの生誕150周年を記念して記念切手、記念硬貨も発行されました。
引用文献:
Grazia Deledda: scrittrice (quasi) per istinto
Racconti sardi. Grazia Deledda - Catartica Edizioni
次回4月8日は「ガヴィーノ・レッダ:Gavino Ledda」 です。
2025 年 3 月 18 日公開
【第3話】シチリア島出身の著名人:その3 ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)
※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。
第3話 シチリア島出身の著名人:その3
ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)
(パレルモ, 1916 生~ローマ, 1991没)
20世紀イタリアで最も著名な作家であり知識人の一人です。彼女の作品の中でも、「ある家族の会話:Lessico famigliare」 はイタリア文学の宝石 とも言われ、1963年に権威あるストレーガ賞 を受賞しました。
ナタリアとレオーネ・ギンズブルグ
生涯と作品
1916年にパレルモで生まれたナタリア・レーヴィは、ユダヤ人の家庭に育ちました。父親は著名な大学教授であり科学者でしたが、ファシズム政権の台頭とともに、公然と反ファシズムの立場を取るようになり、一家はトリノに移り、彼女はそこで教育を受け始めました。
20世紀初頭に生まれた女性が、多様で深遠かつ確固たる作品を生み出すことは、ほとんど不可能に思われていましたが、彼女はそれを成し遂げ、小説だけでなく、演劇、エッセイ、評論、翻訳など、多岐にわたる分野で才能を発揮しました。特に、マルセル・プルーストの膨大で難解な作品「失われた時を求めて」の最初の巻を、21歳という若さでイタリアで初めて翻訳したことは特筆に値します。
1938年、彼女はイタリアの文学者であり、同じくユダヤ人であるレオーネ・ギンズブルグと結婚しました。彼女は夫の姓を名乗り、夫とともに作品を発表し、広く知られるようになりました。夫との交流を通じて、当時のトリノで最も重要な反ファシズム知識人たちと強く結びつき、レオーネが協力していたエイナウディ出版社周辺に集まって活動しました。
1940年、レオーネとナタリアは政権によって追放処分を受け、1944年、レオーネ・ギンズブルグはローマのレジーナ・コーエリ刑務所でナチス・ファシストによって尋問と拷問を受けた後、1944年2月4日の夜、妻ナタリアに最後の手紙を書き、数時間後の2月5日に息を引き取りました。
同年、アメリカ軍の解放後、彼女はローマに移り、エイナウディ出版社との協力関係を開始しました。
その後、トリーノに戻り、家族と再会しました。再婚して文学的にも最も多作な時期を迎えましたが、1969年にはその2番目の夫も亡くなり、その後、1980年代まで政治活動や文化活動に積極的に関わるようになりました。ナターリア・ギンズブルグは、ローマで1991年に亡くなりました。
ある家族の会話:Lessico famigliar e
「家族の語彙」は、作者の幼少時代とレーヴィ家の出来事を描いた自伝的小説です。ギンズブルグは、家族の逸話や習慣を語っています。幼少時代の出来事、山で過ごした夏の休暇、父が几帳面に守っていた習慣などを通して、家族の性格を再構築し、優しくも皮肉を込めて家族の絆や個人の感情を繊細に描き出しています。
ユダヤ人であり反ファシストである家族の物語には、当然のことながら歴史的出来事が深く関わっています。家宅捜索、父親と3人の兄弟が受けた投獄など、反ファシストを公言する家族が歴史的事件から受けた重圧が描かれています。しかし、これらの出来事は、自由な形式で語られ、彼女の文学作品は、イタリアの歴史と文化を背景に、存在の具体的な意味を考察する機会を与えてくれます。
引用文献:L’ultima lettera di Leone Ginzburg a Natalia | Blog | Sul Romanzo
次回3月28日は「グラツィア・デレッダ:Grazia Deledda」です。
2025 年 3 月 8 日公開
【第2話】シチリア島出身の著名人:その2 ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)
※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。
第2話 シチリア島出身の著名人:その2
ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincnzo Bellinie)
(カターニア、1801年生 - プトー、1835年没)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、イタリアのベルカントオペラを代表する作曲家の一人で、「カターニアの白鳥 “Cigno catanese” 」 という愛称で親しまれました。
ハインリヒ・ハイネは「フィレンツェの夜 」の中で、ベッリーニの容姿を以下のように描写しています。
「彼は背が高く、すらりとした体型で… 顔は整っていて、やや面長で、青白いピンク色をしていた。髪は金色に近いブロンドで、まばらな巻き毛にしていた。額は非常に広く、気品があった。鼻は真っ直ぐで、目は青く、青白かった。口は均整が取れていて、顎は丸かった。彼の顔立ちには、どこか曖昧で、特徴がなく、乳白色のようなところがあり、その乳白色の顔には、時折、甘酸っぱい苦痛の表情が浮かんだ。」
1801年にカターニアで生まれたベッリーニは、父親は作曲家であり、父方の祖父、ヴィンチェンツォ・トビア・ニコラ・ベッリーニは、高名な宗教音楽の作曲家でした。幼い頃から音楽の才能を発揮し、1819年にはカターニア市から奨学金が与えられ、ナポリの王立音楽院に通いました。ナポリでの経験を経て、オペラ『海賊』(1827年)と『異国の女』(1829年)は、ミラノ・スカラ座で大成功を収め、その後5つのオペラを作曲し、特にミラノの観客のために書かれた『夢遊病の娘』と『ノルマ』(どちらも1831年に上演)が最も成功しました。
ベッリーニのキャリアと芸術における決定的な転換期は、イタリアを離れパリへ向かったことでした。ここで彼は、フレデリック・ショパン (1810年~1849年)をはじめとするヨーロッパで最も偉大な作曲家たちと交流し、彼の音楽言語は、常に変わらぬ旋律のインスピレーションを保ちながらも、新しい色彩とソリューションで豊かになりました。パリに住んでいたジョアキーノ・ロッシーニ (1792年2月29日~1868年)は、彼を自分の愛弟子と考えていました。
彼の最後のオペラ『清教徒』は、1835年に初演され、大成功を収めました。しかし、才能溢れるこの芸術家は、1830年初めに感染したアメーバ性腸感染症のため、1835年にフランスのプトーでわずか33歳で早逝しました。
学者のヌンツィオ・バルバガッロは、ベッリーニの死が発表されたとき、カターニアの住民は衝撃を受け、まるで近親者が亡くなったかのように、喪服を着て市立劇場での「ノルマ」の公演に出席したと書いています。
1. マッシモ・ベリーニ劇場:Teatro Massimo Vincenzo Bellini
マッシモベリーニ劇場は、南イタリアのシチリア島カターニアにあるヴィンチェンツォ・ベリーニ広場にあるオペラハウスです。ベッリーニにちなんで名付けられ、1890年5月31日に作曲家の傑作「ノルマ」が演奏されて発足しました。
2. 1985年のイタリア銀行発行の5000リラ紙幣。
表面にはヴィンチェンツォ・ベッリーニの肖像画、背景には大きなオペラハウスが描かれています。 裏面には、ノルマを連想させる木のそばに立つ女性像が描かれています。
3. なぜ 「Pasta alla Norma」?
ベッリーニの重要なオペラの名前が、カターニアのパスタ料理の名前に使われています。
シチリア演劇の劇作家、ニーノ・マルトーリオが、ある日、トマトソース、揚げナス、塩リコッタチーズを使ったパスタ料理を出されたとき、余りの美味しさに「これはまさにノルマだ!」と叫び、その素晴らしさをベッリーニのオペラに例えたことに由来すると言われています。
引用文献:Balarm.it storia e tradizioni
次回3月18日は「ナタリア・ギンズブルグ: Natalia Ginzburg 」です。