2026 年 10 月 8 日公開
【第58話】リグーリア州出身の著名人:その8 カミッロ・ベンソ、カヴール伯爵 (Camillo Benso Conte di Cavour)
カミッロ・ベンソ、カヴール伯爵:
Camillo Benso Conte di Cavour(1810年〜1861年)
イタリア統一後の初代内閣総理大臣であるカミッロ・ベンソ、カヴール伯爵は、19世紀イタリア自由主義の最も際立った人物です。彼は、まずピエモンテにおける立憲君主制の確立の主役であり、その後、国家統一プロセスの推進者となりました。
カヴールは1810年8月10日、トリノの貴族の家に生まれました。
復古反動期のピエモンテの気候風土に耐えられず、彼は数年間サヴォイア家のカルロ・アルベルトの宮廷に仕え、その後工兵隊の士官となりましたが、1820年代の終わりに家族の財産の管理に専念することを決意しました。
フランスやイギリスへの度重なる旅行もあり、彼は高度な経済的・政治的教養を身につけました。自らの所領で重要な農業革新を推進し、著作を通じて政治・経済の議論に参加し、ピエモンテの穏健自由主義の主要な代表者となりました。
⇐ Carlo Alberto di Savoia
1848年に初めて議員に選出され、数年のうちにヨーロッパ全土で最も知られたイタリアの政治家となりました。ダゼリオ内閣で農業大臣、のちに財務大臣を歴任し、1852年11月に閣僚評議会(首相)に就任すると、経済および政治的発展プログラムのもとで、ピエモンテ自由主義の穏健派と進歩派の精神の再結集(ラッタッツィが率いていた)を主導しました。
ピエモンテの急速な経済発展を保証しただけでなく、カヴールはロシアに対する西洋列強側としてクリミア戦争へのイタリアの参戦を推進しました。これにより、サルデーニャ王国を主要列強との緊密な関係網の中に位置づけ、「イタリア問題」をヨーロッパ政治の議題に載せることができました。
⇐ Massimo d'Azeglio:任期、1849年5月7日~1852年11月4日(ダゼッリオ第2次内閣でのその後の改造を含む)
1856年のパリ講和会議では、将来のイタリア問題の解決に向けて、
イギリスおよびフランス皇帝ナポレオン3世の支持を獲得することに成功しました。
1859年、彼はサルデーニャ王国を率いてオーストリアと戦い、第二次イタリア独立戦争を勝利に導き、イタリア北部における大国を創り出すことを可能にしました。ヴィラフランカの休戦に抗議して首相を辞任しましたが、1860年には再び政権に復帰しました。最後の政権運営において、彼は「千人隊(赤シャツ隊)」の成功を利用して、ローマとヴェネトを除くイタリア半島を統一することに成功しました。
彼は最大の成功である3月のイタリア王国の宣言の直後、1861年6月6日に死去しました。
彼は死去するまで、ほぼ途切れることなく政権の座に留まりました。
「彼の記憶が結びつけられることになる歴史は、最も素晴らしいもののひとつであり、
いや、むしろ世界の歴史に記録された中で最もロマンチックなものと言えるだろう」
(ヘンリー・ジョン・テンプル、パーマストン子爵の見解)
「ヨーロッパにおいて、現在の状態では、真の政治家はただ一人しかいない。
しかし不幸なことに、彼は我々の敵である。それはカヴール伯爵である」
(クレメンス・フォン・メッテルニヒ)
VIDEO
引用文献:YouTube:Biografia di Camillo Benso, conte di Cavour
次回2026年10月18日は「Camillo Olivetti」です。
2026 年 9 月 28 日公開
【第57話】リグーリア州出身の著名人:その7 ジェノヴァ派(Scuola Genovese)
ジェノヴァ派(Scuola Genovese)
ジェノヴァ、それは山と水に挟まれた、海の男たちと詩人たちの街。 海から多様な言葉、伝統、文化を受け継いできた街。 1960年代、街の小道や広場、カフェがイタリアのシンガーソングライター発祥の地へと魔法のように生まれ変わり、比類なき才能の世代が誕生した街。それがジェノヴァ派であり、その最も愛された場所はフォーチェ(Foce)地区、正確にはチェッキ通り(via Cecchi)の上部にあります。 ここはサヴォイア朝風の広い並木道と優雅な邸宅が立ち並ぶ、街の他の地区とは全く異なる雰囲気を持つエリアです。
⇐ ジェノヴァのカンポ通りにあるファブリツィオ・デ・アンドレの記念プレート
1950年代、ジーノ・パオリ、ウンベルト・ビンディ、ルイージ・テンコ、ブルーノ・ラウツィ、そしてファブリツィオ・デ・アンドレといった若者たちは、バリ・ジェア(Bari Gea)や、その向かい側にあって「小さな広場:la piazzetta」と呼ばれていた庭園に集まっていました。 そこからトリノ通り(via Torino)を下り、ジェノヴァの「カッルッジ:carruggi:狭い路地」へと足を踏み入れていたのです。
⇐ I carruggi
そこは、古い街並みを形作る暗く狭い路地が迷路のように入り組んだ場所。潮の香りが様々な言語や伝統の味、音と混ざり合う場所です。ジェノヴァの真の精神は、家の窓と窓が触れ合いそうになるほど近くに立ち並ぶ、この中世の小道にこそ宿っています。建築様式が重なり合い、朽ち果てた壁や建物の合間に、ジェノヴァの貴族たちの美しい邸宅が突如として姿を現します。 各所にある豊富なギルド(職能組合)からの寄付のおかげで、あらゆる曲がり角に古い祈りの祠(エディーコラ・ヴォティーヴァ)が見つかり、売春婦たちの家のすぐ隣に佇んでいることさえあります。 そこは貧困、犠牲、社会からの疎外の物語を語り、聖なるものと俗なるものが織り交ざる場所。そして、若い頃の大部分をここで過ごした偉大なシンガーソングライターにインスピレーションを与えた場所なのです。
ジーノ・パオリ(Gino Paoli, 1934-2026年)
イタリアの著名なシンガーソングライターであり政治家。「ジェノヴァ派」の主要人物。
「潮の味:Sapore di sale」「天井の月:Il cielo in una stanza」「恋に終わりなく:Senza fine」といった
時代を超えた名曲で知られ、その詩的な音楽で世代を超えて影響を与えました。
ウンベルト・ビンディ(Umberto Bindi, 1932-2002年) イタリアの著名なシンガーソングライター、作曲家、ピアニスト。「ジェノヴァ派」の主要人物。
洗練されたメロディと感傷的な歌詞で知られ、「私たちのコンサート:Il nostro concerto」「アリヴェデルチ:Arrivederci」「私の世界:Il mio mondo」などの名曲で有名です。
ブルーノ・ラウツィ(Bruno Lauzi, 1937-2006年)
イタリアの著名なシンガーソングライター、作曲家、キャバレー芸人、詩人、作家。「ジェノヴァ派」の主要な代表者の一人とされています。
「星と子供:La stella e il bambino」などの傑作や、ユーモラスな楽曲「いたずら親父:Il Vecchiaccio」で知られています。
ルイージ・テンコ(Luigi Tenco, 1938-1967年)
影響力のある、社会派で感受性豊かなシンガーソングライター。愛、孤独、社会抗議などのテーマを探求したイタリアの詩人・作曲家であり、「ジェノヴァ派」の主要人物。
憂鬱でメッセージ性の強い歌詞で知られ、「愛に恋して:Mi sono innamorato di te」や「チャオ・アモーレ・チャオ:Ciao amore ciao」といった楽曲でイタリア音楽界に革命を起こしました。
ファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De André, 1940-1999年)
イタリアで最も有名かつ影響力のあるシンガーソングライターの一人。
その歌の中で、社会からの疎外者、反逆者、売春婦、貧しい人々の物語を、しばしば詩的で人間味あふれるトーンで語りました。
「マリネッラの歌:La canzone di Marinella」「ボッカ・ディ・ローザ:Bocca di Rosa」「ピエロの戦争:La guerra di Piero」などの代表曲のほか、「良き知らせ:La buona novella」やジェノヴァ方言で歌われた画期的なアルバム「クロエッツァ・デ・マ:Creuza de mä」などの重要な作品を残しています。
引用文献:youtube:scuola genovese Città Segrete
次回2026年10月8日は「Camillo Benso Conte di Cavour」です。
2026 年 9 月 18 日公開
【第56話】リグーリア州出身の著名人:その6 レンツォ・ピアーノ (Renzo Piano)
レンツォ・ピアーノ:Renzo Piano(1937年、ジェノヴァ生~)
レンツォ・ピアーノは、現在存命する最も重要なイタリア人建築家であり、
世界で最も偉大な建築家の一人です。
レンツォ・ピアーノは1937年、ジェノヴァの建築業を営む家族のもとに生まれました。
1964年に建築の学位を取得し、パリやロンドンといった外国の都市を数多く旅して
自身の素養を磨き上げました。
すでに1970年には国際的な名声を博すようになり、日本の大阪万博における
イタリア産業館の設計を任されることになりました。
その翌年、彼は建築家リチャード・ロジャース(当時、共同でスタジオを立ち上げたばかり)と共に、パリのジョルジュ・ポンピドゥー・センターの建設コンペで大勝利を収めました。
このプロジェクトは革命的であり、当時は多くの物議を醸しましたが、今日ではパリの都市計画に欠かせない一部となっています。最も斬新だったアイデアは、換気装置、配管、階段といった通常は隠されるすべての要素を、異なる色を用いて外側に配置し、はっきりと見えるようにすることでした。使用された素材も鉄鋼、プレキシグラス、プラスチックなど多様かつ革新的なものでした。
1985年以降、彼を世界的名声へと押し上げた作品が、ジェノヴァの古港(porto antico di Genova)の再開発です。古い倉庫の修復や新しい建物の建設が行われました。
その中でも、ヨーロッパ最大の水族館である「アクアリオ:Acquario」や、2001年に加えられた熱帯の動植物を収容する透明な球体「ラ・ボッラ:la Bolla」が際立っています。
1988年、ピアーノは再び日本の大阪を訪れ、新しい空港(関西国際空港)の設計を手掛けました。建設のための土地がなかったため、約5平方キロメートルにも及ぶ人工島を一から創り出し、3キロメートルの橋で本土と繋ぎました。
オーストラリアの東、太平洋の孤島に位置する群島であるニューカレドニアにおいて、ピアノは1991年から先住民族の小屋の形状、素材、木材を尊重した文化センターを建設しました。
1994年には、お互いに補完し合うオープン・クローズの空間で構成されるローマの音楽公園(Parco della Musica di Roma)の工事が始まりました。階段状の広場が、3つの音楽ホールを取り巻く中心となっています。ホールの形状は非常に示唆に富んでおり、マウスや甲虫(カブトムシ等)を彷彿とさせると同時に、優れた音響効果を生み出しています。
比較的新しい作品としては、2008年にサンフランシスコで完成したカリフォルニア科学アカデミーの美術館が挙げられます。水族館や植物のコレクションを収容するこの建物の屋根は、150万もの小さな植物で覆われており、完璧な断熱効果を発揮しています。
これはノルウェーやアイスランドで過去に使用されていた古代の技術ですが、現在でも有効な手法です。
ロンドンでは、2012年のオリンピック開催に合わせて「lo Shard London Brige(通称:碎片/Scheggia)」が落成しました。高さ310メートルを誇り、EU域内で最も高い超高層ビルです。ガラスの外装とピラミッド型の形状により、その巨大な規模にもかかわらず軽やかな印象を与えています。
イタリアの当時の大統領ジョルジオ・ナポリターノは、ピアノの達成した名声を称え、2013年8月30日に彼を終身上院議員に任命しました。
初期段階にあるごく最新のプロジェクトの一つに、ボローニャの小児病院があります。その中心的なアイデアは、病棟を木々の間に高架式で建設することであり、子どもたちがまるで自分たちの遊び場のように、枝の間にある小さなお家にいるかのような感覚を抱けるようにするというものです。
彼の建築が「グローバル」と定義できる理由は以下の通りです。
ー彼の作品が世界のあらゆる場所にあること.
ー現地の伝統、習慣、素材を常に吸収し、自分自身のものにしてきたこと
ーレンガや木材といった伝統的な素材と、プラスチックや鋼鉄といったより革新的な素材の両方を活用していること
引用文献;http://googleusercontent.com/youtube.com/-zvJtbHDIn8
次回2026年9月28日は「Scuola Genovese」です。
2026 年 9 月 8 日公開
【第55話】リグーリア州出身の著名人:その5 エウジェーニオ・モンターレ(Eugenio Montale)
エウジェーニオ・モンターレ(ジェノヴァ 1896年 – ミラーノ 1981年)
モンターレは、1896年に小さな商店を営む夫婦の6番目の子供として、ジェノヴァで生まれました。
青春時代、モンターレは声楽のレッスンを受け、非常に才能に恵まれていたにもかかわらず、
数年後に音楽の勉強を中断し、そのキャリアを諦めたのです。
その一方で実業学校に通い、簿記の学位を取得しました。
第一次世界大戦に少尉として参加した後、モンターレはカミッロ・スバルバロ(Camillo Sbarbaro)も所属していたリグーリア州の詩人のグループと交友を持つようになります。1920年代には、トリノのピエロ・ゴベッティ(Piero Gobetti)のサークルに接近しました。1925年、ゴベッティの出版活動のおかげで、モンターレの最初の詩集『イカの骨(Ossi di seppia)』が出版されました。
同年、モンターレはベネデット・クローチェ(Benedetto Croce)によって広められた「反ファシスト知的人宣言」に署名しましたが、モンターレ自身は独裁政権の時代を控えめで距離を置いた態度で過ごしていました。
1927年、著者はフィレンツェに移住し、出版社ベンポラッド社(Bemporad)および著名な雑誌『ソラーリア(Solaria)』の編集に携わりました。自身の詩の執筆に加え、モンターレはさまざまな編集業務を行い、給与の足しにするために翻訳の仕事もしました。
その間、1933年には、ファシズムに対する姿勢を最も鮮明にしていた出版社エイナウディ(Einaudi)から詩集『機会(Le occasioni)』が出版されました。
第二次世界大戦直後、モンターレは、非常に名誉ある職務であるミラノの「コリエーレ・デッラ・セーラ( Il Corriere della Sera)」紙の編集者となりました。実際、この詩人は有名な3面記事(文化・芸術欄)での文化的な記事を通じて、全国的に認められた体制側の知識人となりますが、その後、沈黙の時期を過ごします。
1971年、主に妻ドルシッラ・タンツ(Drusilla Tanzi)の思い出に捧げられた『サトゥーラ(Satura)』と題する詩集で詩作に復帰します。
ドルシッラ・タンツィは作家であり、著名な作家ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)の叔母にあたります。モンターレとは、1927年頃に出会い、長年事実上のパートナーとして共に過ごし、二人が正式に結婚したのは1958年のことです。彼女の没後、モンターレは彼女への追悼と愛を込めて、詩集『サトゥーラ(Satura)』の中に「クセニア(Xenia I, Xenia II)」という有名な連作詩を収め、詩作に復帰したのです。
⇐ Montale と Drusilla(右側)1928年
詩人モンターレは、自らの生きる時代と人間という存在について鋭く批判的に考察を続けながら、その人生において倫理的、哲学的に貫した姿勢を崩すことはありませんでした。そして、モンターレが確立した詩風は、その後のあらゆる重要な詩作運動に大きな影響を与えました。1967年、モンターレはイタリア共和国の終身上院議員に指名されるとともにケンブリッジ大学から名誉学位を受け、1975年にはノーベル文学賞を受賞しています。
1981年、『Opera in versi』の校訂版発表の直後に、モンターレは84歳でミラノでその生涯の幕を閉じました。
葬儀には4万人を超える人々が出席したとされています。
La Liguria in poesia
モンターレの詩学における主要なテーマの一つは、彼の故郷であるリグーリア州との結びつきです。
同州の風景、特にチンクエ・テッレ(Cinque Terre)のような海の風景は、
修辞技法や音響効果を通して呼び起こされます。
このように、詩人の詩行の中では、モンテッロッソ(Monterosso)という土地は「あたかも引き裂かれようとし、
海との打ち勝てない抱擁へと突き出しているかのあの岩」となり、
一方のヴェルナッツァ(Vernazza)は、その港から「光の点滅が、夜の底に潜む目に見えない波の高まりによって、
一時的に消し去られた」場所となるのです。
モンターレの韻文は、リグーリア海岸のあふれんばかりの美しさの背後に隠された魂を発見するための、
詩的な巡礼の旅(itinerarium poeticum)として読むことができます。
引用文献 :Eduflix Italia Biografia di Eugenio Montale
次回2026年9月18日は「Renzo Piano」です。
2026 年 8 月 28 日公開
【第54話】リグーリア州出身の著名人:その4 エドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis)
エドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis)
(オネーリア、1846年 - ボルディゲーラ、1908年):
イタリア統一後における最初のベストセラーの一つを執筆しました。
彼の最も有名な小説『クオーレ(心)』は、カルロ・コッラーディの『ピノッキオの冒険』とともに、
イタリアの小学校で最も読まれている作品の一つです。
また、統一イタリアにおける同質的で世俗的な文化の形成において、少なからぬ役割を果たすことになりました。
1846年にオネーリアで生まれたデ・アミーチスは、早々に軍人としてのキャリアを歩み始め、それと並行して執筆への情熱を育み、新聞『軍事のイタリア: L’Italia militare』の責任者も務めました。その後、ジャーナリスト業に完全に身を捧げることを決意し、特派員として世界各地を巡る一連の旅を行う機会を得るのです。
そこから、スペイン、オランダ、ロンドン、パリ、さらにはモロッコやコンスタンティノープルといった、当時としては決定的にエキゾチックな場所に関する活き活きとしたルポルタージュが生まれました。デ・アミーチスは読者の関心と好奇心を惹きつける能力に非常にたけていたのです。
イタリアへ帰国した彼は、『クオーレ:Cuore』(1886)の出版に続き、『ある教師の小説:Il romanzo d’un maestro』、『学校と家庭の間で:Fra scuola e casa』、『労働者の若い女教師:La maestrina degli operai』といった小説を発表しました。
これらは、教育のテーマや、統一イタリアの市民社会が目指すべき厳格に非宗教的な価値観の育成に焦点を当てていました。そして、多かれ少なかれ、それらの小説は、書き言葉を通して伝えられた「教育的」なメッセージのおかげもあり、実際にその通りの市民社会になっていったのです。
1886年に発表された『クオーレ』では、語り手はトリノの学校に通う小学3年生のエンリ-コで、彼は、ペルボーニ先生が授業中に語る逸話を日誌のように記録しています。
それは「ロンバルディアの小さな見張り」「サルデーニャのドラム少年」「フィレンツェの小さな書記」といった物語であり、政治的統一を成し遂げたばかりで文化的には決して均質ではない国の中の、さまざまな地域出身の「小さなイタリア人たち」の模範的な人物像における、勇気、祖国への愛、犠牲の精神をたたえています。
『クオーレ』の一般読者における成功は、最初から絶大なもので,初版の刊行時、この小説は41版を重ね、のちに25言語に翻訳され、あらゆる世代の子供たちに読ませるべき教育的テキストとして迎え入れられました。しかも短期間のうちに200万部を売り上げるに至ったのです。
その中の一つ、5月の"Dagli Appennini alle Ande"(アペニン山脈からアンデス山脈まで)は
独立した物語としても愛読され、日本では「母を尋ねて三千里」などの題名で知られています。
『世界名作劇場』シリーズのアニメ『母をたずねて三千里』(1976年)の原作となりました。
スポーツにおけるデ・アミーチス
イル・ジョーコ・デル・ブラッチャーレ(腕輪球技):かつては「すべての遊戯の王」であり、サッカーが台頭する以前は、まさに国民的スポーツとみなされていました。前腕に装着した、スパイク(主にサンシュユの木製)の付いた木製の腕輪で革ボールを打つ競技です。
デ・アミーチスは、このイタリアを代表するスポーツである「イル・ジョーコ・デル・ブラッチャーレ」の大ファンであり、同じ情熱を、ある選手に捧げる詩を書いたジャコモ・レパルディ や、なんと試合中のいざこざが原因で人を殺害するに至ったカラヴァッジョ も共有していました。
2002年に開場したインペリアのクラヴィ地区にあるステリステリオ(競技場)が、デ・アミーチスにちなんで名付けられているのも、決して偶然ではありません。 ※Sferisterio Edmondo De Amicis (Imperia)
1870年頃の写真に写るブラッチャーレの選手たち。
デ・アミーチスの晩年は、母親テレーザの死や、1875年に結婚した妻テレーザ・ボアッシとの絶えないいさかいによって暗いものとなりました。1903年にはクルスカ学会の会員に選出されていますが、故郷のリグーリアに戻ったデ・アミーチスは、1908年3月11日、脳出血により突然の死を遂げました。
⇐ Tomba di Edmondo de Amicis
Cimitero Monumentale di Torino
引用文献 :MuseoTorino https://www.museotorino.it › view
Edmondo De Amicis (Oneglia 1846 - Bordighera 1908)
次回2026年9月8日は「Eugenio Montale 」です。
2026 年 8 月 18 日公開
【第53話】リグーリア州出身の著名人:その3 ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)
ジュゼッペ・マッツィーニ(ジェノヴァ、1805年 – ピサ、1872年)
マッツィーニは、深い共和主義と民主主義の信念に突き動かされ、イタリア統一運動の主要人物の一人として、特にイタリア独立と統一国家・統一意識の形成のための闘いにおいて傑出した功績を残しました。
1805年6月22日ジェノヴァに生まれたジュゼッペ・マッツィーニは、父親の意向に従い、14歳でジェノヴァ大学医学部に入学しました。しかし、医学を早々に断念し、法律の勉強へと転向しました。
1821年のピエモンテのフェデラーティ(秘密結社の1つ)による反乱未遂の後、マッツィーニは祖国の自由のために戦うことの重要性を意識し始めました。法律事務所での実習を開始すると同時に、「ジェノヴァの指標(L'indicatore genovese)」紙のジャーナリストとしても活動しました。 1827年4月6日に民法およびカノン法の学位を取得し、その後、リソルジメント(イタリア統一運動)における最も重要な秘密結社のひとつであるカルボネリーアに加入しました。
革命活動への関与を理由に、マッツィーニはフランスへの亡命を余儀なくされ、1831年にそこで「青年イタリア」を設立しました。この政治結社は、イタリア国民を外国の弾圧から解放することを目的とし、イタリア諸国家をひとつの共和国へと統一することを目指していました。その後、マッツィーニは、青年ドイツ、青年ポーランド、青年ヨーロッパなど、他のヨーロッパ諸国の解放と統一をも意図した政治運動をさらに立ち上げました。
⇐ ジュゼッペ・マッツィーニと若きガリバルディが1833年にマルセイユで出会い、船乗りであったガリバルディに、マッツィーニは彼がサルデーニャ王国海軍に入隊するのではなく、革命運動の遂行に加わるよう説得しました。
1866年、マッツィーニは、フィレンツェで招集されることになっていた新イタリア議会の議員を選ぶため、メッシーナの選挙に立候補しました。しかし、ロンドンでの亡命生活によって選挙運動を行うことができませんでした。というのも、彼には2つの死刑判決(1857年の蜂起に関連してジェノヴァで下されたものと、ナポレオン3世暗殺未遂への関与によりパリで下されたもの)が重くのしかかっていたからです。 選挙での勝利にもかかわらず、過去の判決が原因でその勝利は無効とされました。その後の再選挙でマッツィーニは再び勝利しましたが、その勝利も2度目の無効となりました。 3度目の選挙と3度目の勝利を経て、ようやく議会はその結果を承認することができました。しかし、マッツィーニはアルベルト憲法(サヴォイア憲法)への忠誠の誓いを拒否し、議員就任を辞退しました。
1868年にルガーノへ移住し、1870年には恩赦のおかげでイタリアへ帰国し、新たな民衆蜂起を組織しました。 8月14日、パレルモで逮捕され、ガイータの軍事刑務所に連行されました。 再び亡命させられたものの、その後、ジョルジョ・ブラウンという偽名を使って1872年2月7日にピサへと帰還を果たしました。
ピサにおいて、同年の3月10日に彼は息を引き取りました。それは、自身が国の自然な首都とみなしていたローマが、ついにイタリアのものとなるのを目の当たりにする少し前のことでした。
彼の政治思想には、深い宗教的インスピレーションが満ちていました。マッツィーニは、神の意志が人民の意識の中に力強く現れること、そして各国家が人類の普遍的な進歩に貢献するために神から直接使命を与えられているのだと主張していました。 マッツィーニは、国家の自由と独立は、全住民の犠牲と共同の行動を通じてのみ達成できると考えていました。したがって彼は、統一こそが国家の存続と発展に不可欠な条件であり、唯一正当な政府の形態は人民の意志を完全に表現する「共和国」であると高らかに宣言したのです。
引用文献 :YouTube La Storia In Breve Giuseppe Mazzini in 5 minuti
次回2026年8月28日は「Edmondo De Amicis」です。
2026 年 8 月 8 日公開
【第52話】リグーリア州出身の著名人:その2 ニッコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini)
ニッコロ・パガニーニ:Niccolò Paganini
(ジェノヴァ 1782年 – ニース 1840年)
ニッコロ・パガニーニは1782年10月27日、ジェノヴァの小路(Vicolo)にあるつつましい家庭に生まれました。厳格な父親の手ほどきで音楽の勉強を始め、その後数人の師匠からヴァイオリンのレッスンを受けましたが、子どもの驚異的な才能の前には教えることもほとんどなく、彼は独学とみなされています。
1796年、14歳のとき、父親に連れられてパルマへ赴いた際に肺炎を患いました。
ここで彼は、パルマの愛好家から贈られた「アマティ」製のヴァイオリンを手に、1日10時間から12時間も練習に没頭するようになったのです!!
※ニコロ・アマティ( 1596–1684)
17世紀イタリアのヴァイオリン製作者で、祖父はクレモナの弦楽器製作の始祖的役割を果たしたアンドレア・アマティ、父はジローラモ・アマティです。弟子として、アントニオ・ストラディバリやアンドレア・グァルネリがいます。
パガニーニは、自然の音、鳥のさえずり、動物の鳴き声、さまざまな楽器の音色を模倣しました。その後、北イタリアとトスカーナで一連のコンサートを開始し、最も熱狂的な大歓迎を受けました。
1801年(19歳)には、コンサート活動を一時中断し、しばらくの間ギターの勉強に専念。短期間のうちに名演奏家となり、さらには農業にも没頭しました。パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
1802年(20歳)、賭け事で貴重なヴァイオリンを失った後、生涯の伴侶となる運命の出会いを果たします。それが、あるリヴロンという人物から贈られた「グァルネリ・デル・ジェズ:Guarneri del Gesù」でした。
彼は最期の日々までこの楽器を相棒とし、その力強い音色から「我が大砲:il mio CANNONE 」と呼びました。
1805年、ナポレオンの妹が統治するルッカ宮殿の第一ソロ・ヴァイオリニストの地位を受け入れました。
1810年、その職を辞してイタリア全土を巡り、トリノ、ローマ、パルマ、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステ、ピアチェンツァ、ボローニャ、ナポリ、パレルモといった数々の都市の演奏会で喝采を浴びました。
外見と卓越した演奏スタイル
パガニーニは、長く乱れた髪に、青白く骨ばった顔立ちに際立つ堂々たる鷲鼻をしていました。非常に痩せ衰えてどこか陰鬱であり、常に黒い服をまとい、青いレンズの眼鏡をかけることで、こうした特徴をさらに際立たせていました。
リストよりも早く、彼は「スターシステム:DIVISMO」 を創り出しました。自身のイメージをセルフプロデュースして自らの神話を煽り立て、大衆の熱狂的な、時には狂信的なまでの支持を勝ち取ることに成功したのです。
彼は即興演奏を行い、2本の指で弾きながら、残りの3指で伴奏をピッツィカート(はじく)するという離れ業を見せました。また、楽器の弦が何本か切れてしまっても、臆することなく演奏を続けました。その上で、自身が操ることのできる音響効果を極限まで誇張して活用したのです。さらに彼のヴァイオリンは、イタリア・オペラにおけるソプラノのように歌い、当時のさまざまなオペラのアリアを想起させる、激しくもエレガントな器楽的メロディ主義を実現していました。
広がる伝説と晩年
やがて、「成功を掴むために悪魔と契約を交わした」「墓地で演奏している」(ただし、これは19世紀初頭特有の流行のスタイルでした)、「1本の弦だけで弾いている」(しかし、1本の弦だけで弾くための楽曲を実際に書いていたため、これは本当のことです)といった伝説が広まっていきました。
「パガニーニは同じ曲を繰り返さない!:Paganini non ripete!」
もっとも、彼は観客からアンコールを求められても、リクエストに応じないことがしばしばありました。なぜなら、その多くはその場で即興演奏していたからなのです。
1825年7月(43歳)、パレルモにて、歌手であるアントニア・ビアンキとの間に息子アキッレ(1825–1895)が誕生しました。彼は深い愛情と無条件の献身をもって息子の面倒を見、その愛情は最も困難な時期においても息子からしっかりと報いられました。
1828年には、ついにウィーンへと赴き、そこで満場一致の絶賛を浴びました。こうしてヨーロッパを巡る凱旋ツアーが幕を開けました。イタリアへ帰還後、友人たちと再び親交を温め、より多くの休息をとるためにパルマ近郊に定住しましたが、1834年には肺の病気の明白な症状が現れ始めました。
1840年5月27日、ニースにて58歳でその生涯を閉じました。
引用文献 :YouTube PAGANINI breve biografia : didatticamusicale
次回2026年8月18日は「Giuseppe Mazzini」です。
2026 年 7 月 28 日公開
【第51話】リグーリア州出身の著名人:その1 クリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)
Cristoforo Colombo(クリストフォロ・コロンボ 1451~1506年)
クリストフォロ・コロンボは、1451年にジェノヴァで織物商の家庭に生まれました。 幼い頃から海での生活に魅せられ、わずか14歳で商船に乗り込み、多くの遠隔地を訪れました。
1477年、ポルトガルのリスボンに移住し、そこで地理学、天文学、地図作製の勉強を始めたことで、遠くの新しい土地を発見するというアイデアに夢中になりました。 彼は旅行者たちの話、とりわけマルコ・ポーロのものや、中国への道のりについての証言に強く心を動かされました。クリストフォロは、東回りではなく西へ向かって航海すればアジアに到達できると確信し、それによって税金や関税の支払いを避け、海を渡るだけで目的地に行けると信じ込むようになりました。 彼の確信は誤った計算に基づいたものでした。地球が平らだとまだ考えていた当時の人々とは異なり、彼自身は地球が丸いことを確信してはいたものの、それを実際よりもはるかに小さく見積もっていたため、約2週間の航海でアジアに到達できると考えていたのです!
また、彼には資金援助者が必要だったため、ポルトガル国王に援助を求めましたが、国王はこれを拒否しました。そこで彼はスペインの女王イサベッラに助けを求めました。女王は当初、危険すぎる旅だとして拒否したものの、最終的には説得に応じました。
クリストフォロは、1492年8月3日、スペインのパロス・デ・ラ・フロンテラ港から、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号という当時としては非常に大きな帆船3隻に約120人の乗組員を乗せて出航しました。 航海は最初から困難で予想以上に危険なものであり、クリストフォロは、引き返すことはもはや不可能であり進み続けなければならないと、疲れ果て苦悩する船員たちを説得しなければならない状況に置かれました。
1492年10月12日:クリストフォロ、新世界に上陸。
幸いなことに、ある朝、水面に浮かぶ新鮮な花が目撃されました。陸地が近いのです! 実際、36日間の航海の末、1492年10月12日に乗組員が海岸を発見しました。陸だ!!!
しかし彼らが到達したのはインドではなく、後にアメリカと呼ばれることになる新しい大陸でした。クリストフォロは上陸した島をサン・サルバドルと名付けました。この島は現在、バハマの一部となっています。彼は、1493年3月にスペインに、金、タバコ、オウム、さらには10人のタイノ族の「インディアン」を持ち帰り、大変な名誉と盛大な祝祭をもって迎えられました。
アジアへの最初の遠征に続いて、さらに3回の遠征が行われました。 その後の航海のおかげで、現在パナマに至るまでの他の島々や領土が発見されましたが、期待されたほどの莫大な富が見つからなかったため、乗組員の間やスペイン宮廷内でも不満が広がっていきました。クリストフォロ・コロンボの幸運は急速に尽き果て、最後の遠征の許可を得る少し前には、短い間ではあるものの逮捕さえされました。4回目の航海のあと、彼はバジャドリードで隠居生活を送ることを決め、1506年に、事実上不遇の身のままそこで亡くなりました。
イタリア国立造幣局はクリストフォロ・コロンボの偉業を称え、アメリカ発見500周年を記念して1989年から1992年にかけて、500リラ硬貨を毎年1枚ずつ、計4枚鋳造しました。
引用文献 : Cristoforo Colombo: la sua storia
次回2026年8月8日は「Niccolò Paganini」です。
2026 年 7 月 18 日公開
【第50話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その10 アルベルト・トンバ(Alberto Tomba)
アルベルト・トンバ (Alberto Tomba)
雪上の「ボンバ:爆弾」、アルペンスキーの王者。
アルベルト・トンバは、今日においてもイタリアスキー史上最も偉大な選手の一人です。1966年にサン・ラッザーロ・ディ・サヴェーナで生まれた彼は、80年代後半に頭角を現しました。大回転と回転のスペシャリストとしてすぐに国民的英雄となり、当時のイタリアを代表する存在として、現在でも史上最高のテクニカル種目のスペシャリストの一人と見なされています。
雪上での輝かしい成績だけでなく、その外向的で陽気なキャラクターでも知られたトンバは、イタリア国民のスキー競技に対する熱狂を再燃させ、数多くのタイトルを獲得しました。
オリンピックでメダル5個、世界選手権でメダル4個、アルペンスキー・ワールドカップ総合優勝1回(通算勝利数50勝は歴代4位)、回転のワールドカップ優勝4回、大回転のワールドカップ優勝4回という輝かしい記録を残しました。
アルベルト・トンバの伝説は1987年に始まりました。当時無名だった彼は、クラン=モンタナでの世界選手権大回転で銅メダルを獲得し、その後セストリエーレでの回転と大回転で立て続けに勝利。グスタヴォ・トエニ以来となるイタリア人によるワールドカップでの「ダブル優勝」を達成しました。その屈強な肉体、危険を恐れない姿勢、そしてアドレナリン全開の滑りは、彼を瞬く間に神話的な存在へと押し上げました。1987-1988シーズンには勝利を積み重ね、カルガリーオリンピックでその人気は絶頂に達します。
カルガリーで彼は、イタリアのアルペンスキー選手として初めて冬季オリンピックの1大会で2つの金メダルを獲得しました。
ファンの熱狂は凄まじく、彼を抱きしめようと柵を突き破るほどでしたが、その感動を共有したのは現場のファンだけではありませんでした。
その時、地球の裏側のイタリアでは、国民的音楽祭である「サンレモ音楽祭」が放送されていました。しかし、アリストン劇場の生放送は異例の中断を決定。トンバの回転(スラローム)の滑走を中継するため、番組を止めたのです。彼が2つ目の金メダルを決めた瞬間、1,500万人の視聴者が共に歓喜しました。それは国全体の勝利であり、イタリア人の誇りに深く刻まれる象徴的な瞬間となりました。
突然の名声と隠すことのなかった華やかな生活への愛は、一時期彼のパフォーマンスを低下させましたが、その後再びその才能で世間を驚かせます。1992年のアルベールビルオリンピックでは大回転で優勝し、同一種目でオリンピック2連覇を果たした最初の選手となりました。
1998年の引退後は、芸能活動や世界中でのスキー振興に尽力しましたが、徐々に表舞台からは姿を消していきました。近年は私生活を大切にし、主に執筆活動や、情熱を注いでいるソムリエとしての活動に専念しています。
「登り坂で勝つ(Vincere in salita)」 この言葉は、大きな困難を乗り越えるという比喩として使われますが、アルベルト・トンバに関する有名なドキュメンタリーのタイトルでもあります。
困難な斜面を卓越した技術で攻略した彼は、「克服不可能な障害を乗り越えること」や「プレッシャーの中で秀でること 」の代名詞となったのです。
引用文献 :La carriera di Alberto Tomba, il re dello sci alpino
次回2026年7月28日は「Cristoforo Colombo」です。
2026 年 7 月 8 日公開
【第49話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その9 グリエルモ・マルコーニ (Guglielmo Marconi)
グリエルモ・マルコーニ :Guglielmo Marconi (1874-1937年)
1874年、ボローニャの裕福な家庭に生まれたマルコーニは、幼い頃から電磁物理学に情熱を傾けていました。21歳の時、ポンテッキオにある父の別荘で、電磁波(ドイツの物理学者ヘルツにちなんでヘルツ波と呼ばれる)を用いたモールス信号の長距離伝送実験に初めて成功しました。マルコーニは既存の送受信装置を活用し、アンテナを開発しました。この革新は、彼の通信技術の成功に決定的な影響を与えました。
イタリア国内では自身の発明を実用化するための資金調達が不可能であることを悟ったマルコーニは、母親アニー・ジェイムソンの出身国であるイギリスへ渡り、そこで幸運を手にすることになります。
1897年には、無線電信信号会社(Wireless Telegraph and Signal Company)を設立し、ケーブル網に頼ることなく、いつでも、どんな天候でも通信を確保できる技術を長年探していた英国海軍の無条件の支援を得ることに成功しました。若きマルコーニと彼の発明は、複数の新聞社との協力によっても注目を集めました。
1898年7月に開催されたキングスタウン(現・ダン・レアリー)レガッタにおいて、グリエルモ・マルコーニは海上の汽船「フライング・ハントレス号」から陸上へとマルコーニ通信(無線電信)を送信し、スポーツ競技のリアルタイム実況を世界で初めて実現しました。
これは、ダブリンの新聞『Daily Express』が新しい試みとしてチャーターした汽船から無線電信を送信し、25マイル(約40km)離れた沖合から岸へ、合計700通以上のメッセージが送受信されました。
この成功がヴィクトリア女王の関心を惹き、負傷療養中の皇太子(後のエドワード7世)が乗る王室ヨットと、オズボーン・ハウスの女王との間でも無線通信が行われる契機となりました。
信頼性の高い大洋横断通信を得るための実験は、1907年にマルコーニ社が設立されるまで続けられました。同年10月、同社は大西洋を横断する初の定期的な公共無線電信サービスを開始し、船舶が無線でSOS信号を送信できるようになり、海上での無線遭難の有用性は、1909年に実証されました。
1909年1月23日 午前4時過ぎ、アメリカのナンタケット島沖の濃霧の中で、ホワイト・スター・ライン社の豪華客船「リパブリック号」と、イタリアの貨客船「フロリダ号」が衝突し、破損した船内で、マルコーニ社の無線通信士ジャック・ビンズは極寒と暗闇の中、予備のバッテリーを駆使して長時間の救難信号の送信を敢行しました。
複数の船が彼の信号を傍受して現場に急行。リパブリック号の乗客・乗員は一度フロリダ号に移されたのち、駆けつけた客船「バルティック号」などによって全員が救助されました。この救出劇により、無線通信の重要性が世界中に知れ渡ることとなりました。
ビンズ自身も「海の英雄」として世界中で称賛を浴び、のちの船舶への無線機器の搭載義務化や、2名の通信士の常駐を提言するなど、その後の海上安全基準の発展に大きく貢献しました。
1909年にノーベル物理学賞を受賞 したマルコーニは、イタリアで科学の天才として称賛されただけでなく、国際機関との良好な関係から、イタリアの外交政策においても重要な役割を担うようになりました。1912年に上院議員に任命され、イタリアとイギリスの関係において重要な役割を果たし、1915年の協商国側でのイタリア参戦の準備に尽力したのです。1919年には、パリ講和会議にイタリア代表として出席しました。
彼は国営ラジオ放送網とバチカン放送網(1931年開局)の設立に協力し、テレビの初期段階やレーダーシステムの実験を監督しました。ファシズムの20年間、彼はイタリア国民の天才性を体現する生きた例として、学校の教科書にも取り上げられ、1937年、ローマで亡くなりました。
マルコーニとタイタニック号の奇跡
1912年のタイタニック号沈没事故において、マルコーニの無線機は「何百人もの命を救ったヒーロー」として語り継がれています。
1. 救命の鍵となった「SOS」
当時、船に無線機を設置するのはまだ義務ではありませんでしたが、タイタニック号には最新のマルコーニ社製無線機が搭載されていました。 船が氷山に衝突した際、航海士たちは無線でSOSを発信し続けました。この信号を近くの客船「カルパチア号」が受信したことで、700人以上の生存者が救助されることになったのです。
2. 「無線がなければ、誰も助からなかった」
事故の後、生存者の一人は「マルコーニ氏と彼の素晴らしい発明のおかげで、私たちはここにいる」と語りました。また、当時のイギリス郵政大臣も「救われた人々は、マルコーニ氏とその素晴らしい発明に命を預けたのだ」と賞賛しています。
この事故をきっかけに、海上の安全ルールが劇的に変わりました。
*無線の義務化: すべての大型船に24時間体制の無線運用が義務付けられました。
*グローバル企業へ: 彼の設立した「マルコーニ社」は、世界の海上通信を独占するほどの巨大企業へと成長しました。
*理学から実用へ: それまで実験室の中だけの現象だった電磁波を、「遠くの人と話すための道具」へと変えたのが彼の真の功績です。
1990年から2001年にかけて発行された、グリエルモ・マルコーニの肖像が描かれた額面2,000リラのイタリア紙幣。
引用文献 :Gugliemo Marconi - Biografia
次回2026年7月18日は「Alberto Tomba」です。