2026 年 6 月 18 日公開
【第47話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その7 ジョルジョ・アルマーニ (Giorgio Armani)
ジョルジオ・アルマーニ: Giorgio Armani (1934-2025)
ジョルジオ・アルマーニは1934年7月11日、ピアチェンツァに生まれました。医学の道を志し学業に励んでいましたが、ファッションへの情熱に従うべく大学を中退、
1957年、ミラノの百貨店「ラ・リナシェンテ」でウィンドウ・ディスプレイ担当として働き始めます。
この時期に養った本質的なラインを見極める目と色彩感覚は、後の彼のスタイルを決定づける重要な要素となりました。
1965年、セルジオ・ガレオッティと共に「GAM Armani」を設立し、ウンガロ、ゼニア、ジボといったイタリアの有名ブランドのフリーランスデザイナーとして活動を開始。彼の作り出す流れるような柔らかなラインの服は、すぐに女性たちを魅了しました。
大きな転機は1975年に訪れました。ジョルジオ・アルマーニが、女性向けの革新的なアンコンストラクテッドジャケットを発表し、初のファッションショーを行ったのです。柔らかく体にフィットするこのジャケットは、従来の男性用テーラリングの窮屈なパターンを打ち破り、この成功により、アルマーニはイタリアのデザイナー界の頂点へと上り詰めました。
女性の身体を男性的な硬直したスーツから解放するという発想は、他の多くのデザイナーに影響を与え、数年のうちに、アルマーニのスタイルはハリウッドスターや世界中の人々を魅了するようになったのです。
ジョルジオ・アルマーニは、衣料品に加え、香水、アイウェア、時計、ジュエリー、家具、そして高級ホテルのデザインも手掛け、わずか数年のうちに、アルマーニの名はまさにファッション帝国へと成長しました。
ジョルジオ・アルマーニの影響力はファッションの枠を大きく超え、文化や社会にまで及びました。彼の服は映画、演劇、音楽界のスターたちに愛用され、80年代から90年代の華やかなイメージを作り上げました。
また、彼は「メイド・イン・イタリー」の力強い推進者としても知られ、全生産工程をイタリア国内で行うことで、優れた製造地域(ディストリクト)の価値を高めました。
2001年には「ジョルジオ・アルマーニ財団」を設立し、連帯プロジェクトや環境保護活動を推進。また、動物毛皮の使用を廃止するなど、動物を犠牲にしないファッションへの強い意識も示しました。
1980年の映画『アメリカン・ジゴロ』撮影中のリチャード・ギア。
有名なアルマーニのスーツ姿。
アルマーニは、『アメリカン・ジゴロ』『ダークナイト』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』など、250本以上の映画で衣装を担当しました。
また、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックを含む、数々のオリンピック大会でイタリア代表チームのユニフォームも手掛けています。
2008年にはバスケットボールチーム「オリンピア・ミラノ」を買収し、現在は「EA7 エンポリオ・アルマーニ・ミラノ」として知られています。
⇐ 2022年のオリンピア・ミラノのスクデット(リーグ優勝)の勝利。
2023年、アルマーニは故郷のピアチェンツァに戻り、カトリック聖心大学からグローバル・ビジネス・マネジメントの分野で名誉学位を授与されました。
2025年にはパリでオートクチュールの最新コレクションを発表し、ジョルジオ・アルマーニ プリヴェの20周年をハリウッドの優雅さをテーマに祝福しました。
また、ニューヨークでもコレクションを発表し、新たなブティックやレストランをオープンするなど、同都市との絆を深めました。
ジョルジオ・アルマーニの物語は、エレガンスと着心地の良さという新たな概念を世界にもたらした先見の明のあるデザイナーの物語であり、特に女性の身体を伝統的なファッションの窮屈な制約から解放した功績は特筆に値します。彼の紛れもないスタイルとたゆまぬ努力は、イタリア国内外の次世代ファッションデザイナーにとって、永遠に模範となるでしょう。
高齢であっても精力的に活動を続け、2024年には「仕事こそが最高の薬だ」と語っていました。
ジョルジオ・アルマーニは、数ヶ月前から秘密裏に入院・療養していたミラノのボルゴヌーヴォ通りの自宅にて、2025年9月4日、91歳でこの世を去りました。
引用文献 :Giorgio Armani e la sua storia: la rivoluzione dello stilista ...
次回2026年6月28日は「Luciano Pavarotti」です。
2026 年 6 月 8 日公開
【第46話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その6 フェデリコ・フェッリーニ(Federico Fellini)
フェデリコ・フェッリーニ:Federico Fellini(リミニ、1920年ーローマ、1993年)の生涯と作品は、リミニで過ごした幼少期に深く根ざしています。この街は、彼にとって「魂と記憶の場所」として、その後の映画の中で何度も呼び起こされることになります。
1920年に生まれた若きフェッリーニは、早くから絵や視覚的な物語に対して並外れた好奇心を示しました。高校時代には、地元の映画館のために風刺画や上映作品の宣伝用イラストを描く活動をしており、これが後に芸術へと昇華することになる「想像力の世界」との最初の出会いとなりました。
画像への情熱と豊かなイマジネーションは、彼のキャリアを貫く主軸となります。彼のあらゆる物語は、スクリーン上で命を吹き込まれる前に、ビジョンで満たされたノートに書き留められたスケッチやメモ、そして夢から生まれていたのです。
ローマへの移住と愛の出会い
フェデリコ・フェッリーニの生涯における極めて重要な転機の一つが、1930年代の終わりに見せたローマへの移住でした。法学を学ぶ目的でリミニを離れた若きフェッリーニでしたが、首都ローマで出会った活気にあふれたクリエイティブな世界は、大学のどの講義室よりも彼を魅了しました。彼は『ラ・ドメニカ・デル・コリエーレ:La Domenica del Corriere』などの新聞や雑誌に寄稿し始め、皮肉と繊細さをもって世界を観察し、描写する才能を磨いていきました。
その頃フェッリーニは、EIAR(イタリア放送協会)でジュリエッタ・マシーナ(1921 - 1994年)と出会います。
マシーナは、ユーモア雑誌『マーク・アウレリオ:Marc Aurelio』のジャーナリストであったフェッリーニが執筆した、コミカルで奇想天外なラジオドラマを演じていました。
フェッリーニは彼女と恋に落ち、二人は1943年に結婚しました。
映画界での躍進と名作の誕生
本当の転機が訪れたのは1945年、ロベルト・ロッセリーニとの出会いでした。フェッリーニは彼と共に、ネオレアリズモの歴史に刻まれることになる『無防備都市:Roma città aperta』や『戦火のかなた:Paisà』といった映画の原案や脚本を手がけ始めます。この時期、フェッリーニはロッセリーニ、アルベルト・ラットゥアーダ、ピエトロ・ジェルミといった巨匠たちの脚本家や助監督として頭角を現し、将来の映画監督としての礎を築きました。
フェッリーニの生涯と作品において、最も重要な瞬間のひとつが1950年の監督デビューです。アルベルト・ラットゥアーダと共同で監督した『寄席の脚光:Luci del varietà』がその第一歩でした。その翌年、彼は初の単独監督作『白い船長:Lo sceicco bianco』を発表します。これは当時のコミック(fumetti)の世界を風刺した見事な作品で、公開当時はすぐに成功を収められなかったものの、彼のアイロニカルで幻想的なスタイルがすでに色濃く現れていました。
1953年、リミニでの青春時代の思い出から着想を得た『青春群像:I vitelloni』で大きなブレイクを果たします。この作品は、若者たちの持つ普遍的な焦燥感のシンボルとなり、スタンリー・キューブリックのような映画監督たちからも絶賛されました。
続く『道:La strada』(1954年)は、詩的かつ劇的な傑作であり、フェッリーニと妻のジュリエッタ・マシーナの名を世界に轟かせ、アカデミー賞をもたらしました。
『崖:Il bidone』(1955年)という試作を経て、再び成功を収めた『カビリアの夜:Le notti di Cabiria』(1957年)では、か弱くも尊厳に満ちた女性の強烈なポートレートを描き、二度目のアカデミー外国語映画賞を受賞しました。
『甘い生活:La dolce vita』(1960年)において、フェッリーニは戦後のイタリア社会の忘れがたい姿を描き出し、近代映画の金字塔を打ち立てました。その国際的な名声は、映画監督の創造性の危機を見つめた『8½:Otto e mezzo』(1963年)や、魔法と夢、そして内省に満ちた自身初のカラー作品『魂のジュリエッタ:Giulietta degli spiriti』(1965年)によって不動のものとなります。
その後の傑作の中でも特に異彩を放つのが『アマルコルド:Amarcord』(1973年)です。自身の記憶と青春の街リミニへの情愛を込めたオマージュであるこの作品は、彼に新たなアカデミー賞と、芸術家としての不滅の栄光をもたらしました。
イタリア北部のリミーニ近郊のボルゴ・サン・ジュリアーノの村では、風に乗ってふわふわと舞うポプラの綿毛が春の到来を告げる。3月18日の夜、住民たちは村の広場に集まり、La Sega Vecchia(老女の張り子の人形)を燃やす伝統のかがり火祭「Fogheraccia」に参加する.....
フェッリーニは1993年10月31日の正午、73歳で亡くなりました。その前日は、ジュリエッタ・マシーナとの結婚50周年の記念日でした。妻のジュリエッタも、その数ヶ月後に息を引き取りました。
引用文献 :Federico Fellini: vita e opere del maestro del cinema italiano
次回2026年6月18日は「Giorgio Armani」です。
2026 年 5 月 28 日公開
【第45話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その5 エンツォ・ビアージ(Enzo Biagi)
エンツォ・ビアージ:Enzo Biagi
(Pianaccio 1920 – Milano 2007)
20世紀で最も重要なジャーナリストの一人と目されるエンツォ・ビアージの人生は、多大な損失を被ってでも権力者に決して魂を売らず、常に高いプロ意識を持って仕事に邁進した男の物語です。事実、彼の生涯は「誠実さと知的正直さ」の模範と言えるでしょう。
生い立ちとキャリアの始まり
1920年8月9日、リッツァーノ・イン・ベルヴェデーレのピアナッチョに生まれたビアージは、早くから執筆とジャーナリズムに対して強い情熱を示しました。成人してすぐに新聞社『イル・レスト・デル・カルリーノ:il Resto del Carlino』で働き始め、ジャーナリスト登録が可能になる最低年齢の21歳でプロの記者となりました。長年にわたり、特派員、コラムニスト、そして編集局長として数多くの新聞社で活躍しました。
1943年の休戦後、サロ共和国(ムッソリーニの政権)への徴兵を逃れるために国境を越え、パルチザンとして活動しました。また、作家としても活動し、その著書は世界中で1,200万部を売り上げています。
1961年にイタリア放送協会(RAI)に入社。以降、数多くの人気報道番組を企画・司会しました。マフィアのようなデリケートな問題の特集や、ゴルバチョフ、カダフィ(ウステカ事件直後のインタビュー)といった大物人物へのインタビューに尽力しました。
この番組『エンツォ・ビアージのためのRai3』のこのエピソードは、彼が世界中を巡って実現させた数多くの対談に焦点を当てています。彼が行ったインタビューはいずれも、イタリア国内のみならず、世界のテレビ史に深く刻まれる重要な足跡を残し、単なる記録を超え、激動の時代を映し出す鏡となっています。
ここで紹介される主な歴史的対話者:
1)ムアンマル・カダフィ:42年間にわたりリビアを支配した独裁者。
2)フランソワ・ミッテラン:フランスの歴史的重要人物である元大統領。
3)ヴァーツラフ・ハヴェル:チェコスロバキアの大統領であり、1993年のチェコ共和国誕生時にも大統領に再選された人物。
4)ミハイル・ゴルバチョフ:20世紀の主役の一人。ソ連最後の共産党書記長兼大統領であり、「ペレストロイカ」の父、そしてベルリンの壁崩壊の立役者の一人。ビアージは彼と何度も面会しており、最後となったのは2002年でした。
5)マーガレット・サッチャー:そしてついに女性が登場します。英国の「鉄の女」です。
1985年から2001年にかけて、ジャーナリストとコメディアンという「奇妙なコンビ」が誕生しました。それがエンツォ・ビアージとロベルト・ベニーニです。二人は仕事上の尊敬を超えて、深い友情で結ばれていました。型破りで既存の枠組みを壊すベニーニのスタイルを、ビアージは非常に好んでいました。
ビアージがベニーニについて書き始めたのは、ベニーニが1976年にRai 2の番組『Onda libera』で主役デビューした頃からです。二人のカメラの前での初対面は1985年の『Linea diretta』でした。それ以来、ベニーニはビアージの番組の常連となりました。
1995年、ニュース番組の直後に放送される5分間の番組『イル・ファット(Il Fatto)』の司会を開始。当時のイタリアの人物や出来事を分析する内容でした。しかし、2002年に当時のベルルスコーニ首相による有名な「ブルガリア声明(editto bulgaro)」を受け、番組の降板とRAIとの契約解除を余儀なくされました。
2007年4月、番組『RT - Rotocalco Televisivo』でテレビ界に復帰し、7回にわたって放送されました。秋にも続編が予定されていましたが、健康状態の悪化により断念。2007年11月6日、急性肺水腫の合併症のためミラノで逝去しました。
番組『イル・ファット(Il Fatto)』
1995年1月23日から2002年5月31日に終了するまで、全845回放送されました。月曜から金曜の20:30(後に21:00)から5〜10分間放送されたこの番組は、その後のRai 1における全ての政治討論番組の先駆けとなりました。
『イル・ファット(Il Fatto)』は
その日の主要な出来事の当事者にインタビューを行うか、特定のテーマについて複数のゲストと討論を行いました。
マルチェロ・マストロヤンニ(逝去直前)、ソフィア・ローレン、インドロ・モンタネッリ、アカデミー賞受賞後のロベルト・ベニーニらへのインタビューは、イタリア・ジャーナリズムの金字塔として語り継がれています。
2004年、テレビ批評家による審査員団は、この番組を「RAIの50年の歴史の中で制作された最高の番組」として満場一致で選出しました。
引用文献 :Enzo Biagi, storia di giornalismo e liberta'
次回2026年6月8日は「Federico Fellini」です。
2026 年 5 月 18 日公開
【第44話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その4 ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)
ミケランジェロ・アントニオーニ:Michelangelo Antonioni(1912ー2007年)
イタリアの映画監督。1912年9月29日、フェラーラ生まれ。
彼は、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭の
すべてで最高賞を受賞した唯一の監督です。
現代映画を代表する最も重要な人物の一人であり、ルキノ・ヴィスコンティが『郵便配達は二度ベルを鳴らす:Ossessione』を製作したのと同じポー川流域で、ドキュメンタリー『ポー川の人々:Gente del Po』(1943年)を制作し、ネオレアリズモの先駆けとなりました。
戦後、エッセイスト、ドキュメンタリー作家、脚本家としての真摯な活動を経て、長編デビュー作『愛の記録:Cronaca d'un amore』(1950年)を発表。その簡素でパーソナルなスタイルは、イタリア映画の物語全体を反自然主義的な手法で革命的に変化させました。
「不条理と疎外」の探求
これらのテーマとスタイルは、初期の作品群(『敗北者:I vinti』1952年、『情熱の嵐:La signora senza camelie』1953年、『女ともだち:Le amiche』1955年)に反映されました。
その後、『さすらい:Il grido』(1957年ロカルノ国際映画祭金豹賞)の制作中、監督はモニカ・ヴィッティと出会い、公私ともに深いパートナーシップを築き、いわゆる「実存の四部作」を共に制作しました。
愛の冒険:L'avventura (1960年):カンヌ国際映画祭 審査員賞
夜:La notte (1961年):ベルリン国際映画祭 金熊賞
太陽はひとりぼっち:L'eclisse (1962年):カンヌ国際映画祭 審査員賞
赤い砂漠:Deserto rosso (1964年):ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞
これらの作品でアントニオーニは、カップルの危機をきっかけに、60年代社会における広範な「疎外」の問題に取り組み、当時の偉大な作家たちのテーマと直接結びつくような、人間の条件に対する瞑想へと辿り着きました。
『赤い砂漠:Deserto rosso』(1964年)制作中のアントニオーニと
モニカ・ヴィッティ。
上記の「実存の四部作」を共に制作した後、
監督が『欲望』の準備のためにロンドンへ渡るのと時期を同じくして、
二人は破局しました。
国際的な活動と「危機の三部作」
続く10年間、アントニオーニはそれまで活動の場としていたイタリアという枠組みから距離を置き、新たな空間へと文化的地平を広げ、国外で制作された3つの傑作を通じて、それぞれの「危機の状態」を描き出しました。
欲望(Blow-up )(1967年):観念的な視点から見た「思考の危機」。
砂丘(Zabriskie Point )(1970年):社会学的な視点。
さすらいの二人(Professione: reporter) (1975年):道徳的・実存的な視点。行動の危機、すなわち「行うことの現実」がもはや「真実」とは一致しなくなった状態。
この三部作は、アントニオーニを最も個性的で現代的な映画作家たらしめている表現力、詩情、スタイルを裏付けるものとなりました。彼は単に新しい言語や技術の創始者であるだけでなく、「新しい劇作術:ドラマツルギー」の創始者でもあったのです。
⇐ さすらいの二人(Professione:reporter)(1975年)
1986年、約14年間の交際を経て、監督は40歳年下のドキュメンタリー作家エンリカ・フィコと再婚しました。彼らの絆は、アントニオーニが脳虚血(脳卒中)に見舞われた後の困難な時期にさらに強まり、監督が亡くなるまで続きました。晩年は病によりコミュニケーション能力が著しく制限されましたが、絵画に専念し、いくつかの展覧会を開きました。
2007年7月30日、妻に見守られながら、ローマの自宅にて94歳で死去しました。
【主な功績】
• 1983年:ヴェネツィア国際映画祭 栄誉金獅子賞
• 1995年:アカデミー名誉賞
引用文献 :ANTONIONI, Michelangelo - Enciclopedia
次回2026年5月28日は「Enzo Biagi」です。
2026 年 5 月 8 日公開
【第43話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その3 エンツォ・フェッラーリ (Enzo Ferrari)
エンツォ・フェッラーリ Enzo Ferrari (1898-1988)
エンツォ・フェッラーリは、1898年2月18日の凍てつくような朝、モデナ郊外で生まれました。両親はともにカルピの出身で、控えめな暮らしを送っていました。彼らは、父がイタリア国鉄向けの橋や屋根を製造していた金属加工工場の上の家に住んでいました。エンツォは幸せな幼少期を過ごし、本や文学をこよなく愛した兄のアルベルト(愛称ディーノ)と部屋や日々を共にしました。
しかし、1916年に父親が肺炎で急死し、家庭の平穏は打ち砕かれます。さらに同年、兄のディーノも兵役中に重い感染症にかかり、命を落としました。この時からエンツォは、孤独と向き合いながら、たった一人で生きていくことを学んだのです。
キャリアの始まりとアルファ・ロメオ
1918年の冬、彼は成功を夢見てトリノへと向かいました。そこで、小型トラックを乗用車のシャシーに改造する工場でささやかな職を得ることができました。その後、ミラノのCMN(Costruzioni Meccaniche Nazionali)でテストドライバーとしてのキャリアを積み、やがてレーシングドライバーへと転身します。レースデビューは1919年のパルマ=ポッジオ・ディ・ベルチェートのヒルクライムレースでした。翌年にはアルファ・ロメオとの20年に及ぶ協力関係が始まり、最初は公式ドライバーとして、後にレース部門の責任者として活躍しました。
1929年、すでにスポーツの功績により「カヴァリエーレ(騎士)」や「コメンダトーレ(騎士団長)」の称号を授与されていたエンツォは、モデナに「スクーデリア・フェラーリ」を設立しました。これは会員がレースに参加するためのスポーツ協会でしたが、すぐにアルファ・ロメオの支部となりました。
そのシンボルこそが、あの「跳ね馬(カヴァリーノ・ランパンテ)」です。
エンツォ・フェッラーリは著書『わが残酷なる喜び(Le mie gioie terribili)』 の中でこう語っています。
「1923年にサヴィオ・サーキットで初優勝した際、英雄フランチェスコ・バラッカの父であるエンリコ・バラッカ伯爵と知り合いました。その出会いが縁で、後に母親のパオリーナ伯爵夫人ともお会いしました。ある日、彼女が私にこう言ったのです。『フェラーリさん、私の息子の跳ね馬をあなたの車につけなさい。きっと幸運をもたらしてくれますよ』。私は今でも、ご両親がその紋章を私に託してくれた、献辞入りのバラッカの写真を大切に持っています。馬は当時も今も黒のままですが、私はそこにモデナの色であるカナリア色の背景を加えました」
苦難と栄光
1932年、父親になったばかりのフェッラーリはドライバーを引退し、その数年後にはアルファ・ロメオとの提携も解消しました。しかし、新たな冒険が始まろうとしていました。1939年にモデナで設立され、1943年にマラネッロへ移転した「オート・アヴィオ・コストルツィオーニ(フェッラーリの前身)」です。
戦争による避けられない困難を乗り越え、跳ね馬のメーカーはついに「夢の赤い車」を造る準備を整えました。フェッラーリはすぐにF1を含むレース界でデビューを飾り、勝利を重ね、その車両は革新と贅沢な職人技の代名詞となりました。
Auto Avio Costruzioni Tipo 815
1956年は、フェッラーリにとって最悪の年となりました。人生の心の支えであった息子のディーノを亡くしたのです。翌年も悲劇は続きました。ミッレ・ミリアで2人のドライバーと9人の観客が死亡する事故が起き、彼は欠陥タイヤを装着したとして告発されました。裁判の結果、無罪放免となりましたが、これは彼にとって大きな打撃となりました。その心の傷は何年も癒えることなく、1977年、自ら創設した会社の職を辞し、愛するモデナで引退生活を送る決意をしました。
晩年
控えめで内向的な人物であったエンツォ・フェッラーリは、その功績により、ボローニャ大学の名誉工学博士号、モデナ大学の名誉物理学博士号、大十字騎士章(カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ)、コロンブス賞、社会科学分野のハマーショルド賞など、数多くの重要な称号や賞を授与されました。
彼が携わった最後のプロジェクトは、マラネッロのフェッラーリ・ギャラリー(現ムゼオ・フェッラーリ)の設立でしたが、残念ながらその完成を見ることはできませんでした。エンツォ・フェッラーリは、開館の1年半前である1988年8月14日、90歳でこの世を去りました。
引用文献 :LA STORIA DI ENZO FERRARI
次回2026年5月18日は「Michelangelo Antonioni」です。
2026 年 4 月 28 日公開
【第42話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その2 アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)
Arturo Toscanini
(1867年、パルマのボルゴ・ロドルフォ・タンツィ、1957年ニューヨーク近郊のリバーデイル。)
アルトゥーロ・トスカニーニは、父クラウディオと母パオラ・モンターニの間に生まれました。
仕立屋であり合唱団員でもあった父は熱烈なガリバルディ支持者(赤シャツ隊)であり、
そのため幼いトスカニーニは幼少期の大部分を母方の祖父母のもとで過ごしました。
11歳の時にはすでに音楽を熱愛しており、パルマ音楽院のカリーニ教授のチェロ科に特待生(学費免除)として入学します。
1884年には『ローエングリン』の演奏に加わり、学校の仲間からはすでに「天才」と呼ばれていました(ただし、その鋭すぎる批判精神から「Forbicione :フォルビチョーネ(大鋏)」ともあだ名されていました)。
1885年に音楽院を最優秀の成績で卒業。音楽院の図書館には、今も彼のオーケストラ用スコア3点と、歌とピアノのためのロマンス1点が保管されています。
卒業後、彼はチェリストとして巡業オペラ団に加わります。ブラジル公演の最中、指揮者の代役として急遽、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』を指揮することになりました。楽譜をすべて暗記していたトスカニーニは、見事な演奏を披露し観客を魅了します。この大成功を受け、彼は残りのシーズンも指揮者として採用され、わずか19歳にしてその才能と実力を世に知らしめました。
イタリアでのデビューは1886年11月、トリノでのことでした。母国において彼は数多くの指揮を執り、ルッジェーロ・レオンカヴァッロの『道化師』(1892年)やジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』(1896年)の世界初演、さらにリヒャルト・ワーグナーの『神々の黄昏』のイタリア初演(1895年)などを手がけました。
1896年、トスカニーニはミラノ・スカラ座で初めて指揮を執り、1898年にスカラ座の首席指揮者に選ばれたことで、その名声はさらに高まりました。
1987年にカルラ・デ・マルティーニと結婚。
夫妻の間には、長男ワルター、次男ジョルジョ(1906年にジフテリアで早世)、
長女ウォーリー、次女ワンダの4人の子供が生まれました。
ワンダは、父の協力者でもあったピアニストのウラディミール・ホロヴィッツと結婚しました。
Vladimir Horowitz と Wanda Toscanin
1908年、トスカニーニはスカラ座を去り、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者へと転身します。トスカニーニは、ヨーロッパで台頭するファシズムに猛烈に反対しました。1931年、イタリアでファシスト党の党歌『ジョヴィネッツァ』の演奏を拒否したために、平手打ちを食らうという事件が起きました。彼はドイツのバイロイト・ワーグナー音楽祭で、ドイツ人以外で初めて指揮を執った人物でしたが、1933年にはナチス政権への抗議として、この音楽祭への出席を拒否しました。こうしたエピソードの数々は、マエストロ・トスカニーニの信念の強さを物語っています。
1936年、トスカニーニはパレスチナへと渡ります。ポーランド人音楽家ブニスラフ・フーベルマンと協力し、ヨーロッパから逃れる手助けをしたユダヤ人音楽家たちのオーケストラを指揮するためでした。
1946年5月11日:解放後のスカラ座再建
1943年8月の激しい空爆によって破壊されたスカラ座が、記録的な速さで再建されました。
その再開の日、ミラノの人々は、復興した劇場の美しさに陶酔しながら、ボックス席、平土間、天井桟敷に至るまで、文字通り溢れんばかりに詰めかけました。
マエストロが登場すると、地響きのような歓声が沸き起こりました。拍手と叫び声はますます大きくなります。
指揮台に不動の姿勢で立った79歳のトスカニーニは、めずらしく笑みをこぼすと、すぐさま三色旗(イタリア国旗)の柄がついた指揮棒を上げ、演奏を開始しました。
妻カルラは1951年に死去。
トスカニーニが最後に生演奏の指揮を執ったのは、1954年4月4日のカーネギーホール、
NBC交響楽団とのコンサートでした。
1957年1月16日、アルトゥーロもまた、ニューヨークのリバーデイルにある自宅で89歳の生涯を閉じました。
逸話:
プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演(1926年)に際し、ムッソリーニ臨席のもとで演じることが決められていましたが、ファシスト党政権に反発するトスカニーニは、国歌と扱われていた党歌「青春の歌」の演奏を拒んだのです。このためにムッソリーニは初演に立ち会いませんでした。
未完に終わった「トゥーランドット」をプッチーニの弟子アルファーノが補作しましたが、トスカニーニは補作の直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降り、公演はそこで終了。トスカニーニはオケピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰宅の途につきました。
引用文献 :Arturo Toscanini Parmaitaly.com
次回2026年5月8日は「Enzo Ferrari」で
2026 年 4 月 18 日公開
【第41話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その1 ジュセッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)
ジュゼッペ・ヴェルディ(Le Roncole di Busseto, 1813 – Milano, 1901)
ジュゼッペ・ヴェルディは、1813年10月10日、当時オーストリア統治下にあった
パルマ公国の小さな集落、レ・ロンコレ(ブッセート近郊)に生まれました。
父は宿屋と雑貨商を営み、母は紡績女工としても働いていた非常に質素な家庭の出身でした。
若きヴェルディは早くから音楽の才能を発揮します。ブッセートで彼は、裕福な商人アントニオ・バレッツィと出会いました。音楽に造詣の深かったバレッツィは、少年の類まれな素質を見抜き、ブッセート大聖堂のオルガン奏者フェルディナンド・プロヴェージに師事させるための費用を支援し、自宅に彼を住まわせました。
18歳の時、バレッツィの勧めもありヴェルディはミラノへ向かい、音楽院の入学試験を受けますが、資格年齢〈9~14歳)をはるかに越えていたこともあり「不合格」という衝撃的な結果に終わります。この不合格は歴史的な出来事として語り継がれていますが、審査員側の弁明をすれば、当時の彼は作曲家としてではなく「ピアニスト」として考えられていたこともありました。しかしバレッツィは彼の才能を信じ続け、ミラノに留まって個人レッスンを受けるための援助を惜しみませんでした。
⇐ アントニオ・バレッツィ(1787–1867年)
1836年、学業を終えたヴェルディはブッセートの音楽監督の職を得て、バレッツィの娘マルゲリータと結婚し、二人の子供を授かりました。平穏な日々でしたが、彼の夢はスカラ座という大舞台を音楽で成功することでした。
一家でミラノへ移住しますが、そこから人生で最も過酷な時期が始まります。二人の子供と最愛の妻を相次いで亡くし、肝心の音楽活動もなかなか成功しませんでした。
⇐ バレッツィの娘マルゲリータ(1814-40年)
そんなヴェルディの運命を変えたのが、1842年3月9日にミラノ・スカラ座で初演されたオペラ『ナブッコ』でした。この作品の出演者の中には、後に彼と深い絆で結ばれることになる名歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニがいました。『ナブッコ』以降、ヴェルディは次々と作品を発表し、イタリア国民の絶大な支持を獲得していきます。
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ (1815~1897年)
マッフェイ伯爵夫人のサロンでは、外国の支配からイタリアを解放し、ばらばらの国家を一つにまとめようとする文人や知識人、愛国者たちと交流を深めました。1843年にスカラ座で初演された『第一回十字軍のロンバルディア人』は大喝采を浴び、ヴェルディはイタリア・リソルジメント(国家統一運動)の象徴的な音楽家となりました。
1851年から1853年にかけて、彼は現在も最も愛されている3つのオペラ、いわゆる「中期の三部作」(『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』)を作曲しました。その後パリでは、シラーの戯曲を基に人生の虚無感を描いた傑作『ドン・カルロ』(1867年)を、1871年にはカイロで『アイーダ』を初演しました。
晩年と慈善活動
晩年のヴェルディは宗教音楽にも力を注ぎました。その最高傑作が、1874年に発表された『レクイエム(死者のためのミサ曲)』です。これは、彼が深い敬意を抱いていたリソルジメント文学の巨匠、アレッサンドロ・マンゾーニの死を悼んで作曲されたものです。
ヴェルディが最後に取り組んだ大事業は、幸運に恵まれなかった音楽家たちのための「憩いの家(音楽家のための老人ホーム)」の建設でした。ミラノに現存するこの施設は、ヴェルディ作品の著作権収入によって今も運営されています。
⇐ アレッサンドロ・マンゾーニ(1785-1873年)
1901年1月27日、ヴェルディはミラノのホテルでその生涯を閉じました。
本人は「葬儀は簡素に、行列も不要」と遺言していましたが、この偉大な音楽家に最後のお別れを告げるため、
葬列の通り道には数え切れないほどの群衆が詰めかけました。
引用文献 :Giuseppe Verdi: vita, opere riassunto
次回2026年4月28日は「Arturo Toscanini」です。
2026 年 4 月 8 日公開
【第40話】トスカーナ州出身の著名人:その16 ルカ・パチョーリ (Luca Pacioli)
ルカ・パチョーリ(Sansepolcro 1445~1517)
レオナルド・ダ・ヴィンチに数学を教えた「会計学の父」。
フラ・ルカ・バルトロメオ・デ・パチョーリ(またはパチョーロ)は、イタリアの修道士、数学者、そして経済学者でした。パチョーリはイタリア・ルネサンスが生んだ稀代の人物であり、会計学の分野における革命的な業績から「会計学の父」として知られています。
彼は故郷のサンセポルクロで学び、教育の基礎を築いた後、ヴェネツィアで研鑽を積みました。1470年、おそらくサンセポルクロの修道院にてフランシスコ会に入会しました。数学の教師として、ペルージャ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ピサ、ボローニャ、ローマなど各地を精力的に巡りました。
1494年、彼の最も重要な著作の一つである『算術・図形・比及び比例全書(スンマ)』を出版しました。これは複式簿記に関する最初の体系的な解説書とされており、この功績によって彼は「会計学の父」の称号を得ました。この画期的な著作は近代会計学の基礎を築き、商業や経済の世界で広く活用されました。パチョーリが導入した複式簿記のシステムは、会計学に永続的な影響を与え、今日においてもなお、この学問の根本的な要素の一つであり続けています。
パチョーリは経済学や科学の歴史に消えない足跡を残しただけでなく、同時代のもう一人の傑出した思想家、レオナルド・ダ・ヴィンチの教育においても極めて重要な役割を果たしました。この不世出の天才レオナルドとの絆は、ルカ・パチョーリの生涯において最も意義深い章の一つとなりました。1496年、パチョーリはミラノに移り、当時、偉大な芸術家・科学者として頭角を現し始めていたレオナルドの友人であり指導者となりました。
この実りある関係を通じて、パチョーリはこの発明家の数学教師となり、幾何学、遠近法、その他の数学的原理に関する知識を共有しました。これらは、私たちが今日でも称賛してやまないレオナルドの芸術作品や発明の中に活かされることになったのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチがルカ・パチョーリのためにデザインした3つの多面体。アンブロジアーナ図書館に保管されている『神聖比例論』の写本(MS 170 sup.)より。
ルカ・パチョーリの肖像
『ルカ・パチョーリの肖像』(または『二重肖像画』、別名『ルカ・パチョーリと弟子の肖像』)は、カポディモンテ国立美術館に所蔵されている謎めいた絵画です。
その作者については、ルネサンス期の画家ヤコポ・デ・バルバリ、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ、ロレンツォ・ロット、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチなど、諸説あり議論が続いています。
当時50歳前後だったルカ・パチョーリは、集中した、あるいはどこか遠くを見つめるような眼差しで、当時の貴族的な服装に身を包んだ弟子(視線を観客に向けている)に対し、ユークリッド『原論』第13巻の第8命題を実演して見せています。テーブルの上には、1494年にヴェネツィアで出版され、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公爵に献呈された彼の最も有名な著作『算術・図形・比及び比例全書(スンマ)』が置かれています。その周囲には、数学や幾何学の研究・測定に用いられる道具(羽根ペンとそのケース、コンパス、分度器、チョーク、スポンジ)が散りばめられています。
記念硬貨:1994年 ルカ・パチョーリ生誕500周年記念:イタリア 500リラ硬貨
晩年、ルカ・パチョーリは故郷サンセポルクロのフランシスコ会修道院に退き、静寂と瞑想の中で最後の日々を過ごしました。1517年にこの世を去りましたが、彼の遺志は著作を通じて、また数学と会計学に与えた多大な影響を通じて生き続けています。
引用文献 :Luca Pacioli – Pagina 25
次回2026年4月18日は「Giuseppe Verdi」です。
2026 年 3 月 28 日公開
【第39話】トスカーナ州出身の著名人:その15 ロベルト・ベニーニ
(Roberto Benigni)
ロベルト・ベニーニ(1952年10月27日、マンチャーノ・ラ・ミゼリコルディア生)
ロベルト・ベニーニは、アレッツォ県のマンチャーノ・ラ・ミゼリコルディアに生まれました。
両親のルイージとイゾリーナは共に農家で、彼は4人兄弟の末っ子であり、唯一の男の子でした。
1958年、家族全員でプラートに移住。地元のダティーニ商業技術学校を卒業後、演技の世界へ入ることを決意します。最初は歌手やミュージシャンとして活動を始め、1971年にパオロ・マジェッリ演出の舞台『裸の王様(Il re nudo)』でプラートのメタスタジオ劇場にてデビューを果たしました。
しかし、大きな転機となったのはジュゼッペ・ベルトルッチとの出会いでした。ベルトルッチは彼のために独白劇『カスパーレと故ジュリーアの息子、チョーニ・マリオ(Cioni Mario di Gaspare fu Giulia)』を書き下ろします。この公演はイタリア全土で大成功を収め、テレビシリーズ『オンダ・リベラ(Onda Libera)』への出演につながりました。これ以降、当時の批評家や一部の検閲官に邪魔をされることもありましたが、ベニーニのキャリアは右肩上がりに成長していきます
世界的な成功
1998年、映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』が公開。この作品で彼は世界的に有名になり、アカデミー主演男優賞を受賞しました。また、同作は外国語映画賞を受賞したほか、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリに輝きました。
2000年代初頭から現在までの代表作には、『ピノッキオ』や『ラ・ティグレ・エ・ラ・ネーヴェ(La tigre e la neve)』などがあります。近年は、テレビ、大学、劇場、さらには刑務所などで『神曲』の朗読を行う活動に力を入れています。
資産とビジネス
2018年、ベニーニはフォーブス誌によって「最も稼ぐイタリア人俳優」に選ばれ、その資産は2億4500万ドルに達するとされました。 彼の富は、カメラの前後の才能だけでなく、投資や広告提携によっても築かれています。彼はカラカラ浴場近くの超豪華なヴィラに住み、数軒のレストラン、サッカーチーム、香水ブランド、ファッションライン、ウォッカのブランド、粉ミルク製造会社などを所有しています。さらに、妻と共に映画制作会社「マランポ・チネマトグラフィカ」や、21軒の家屋と20の土地を保有する不動産会社も経営しています。
ロベルト・ベニーニの私生活
ロベルト・ベニーニは、1991年に女優のニコレッタ・ブラスキと結婚しました。
二人は映画『Tu mi turbi(君は僕を狂わせる)』のセットで出会い、それ以来離れることはありませんでした。
結婚式はチェゼーナのカプチン会修道院にて、ごく身内だけで執り行われました。
「それ以来、私たちは劇団のように何でも一緒にやってきました。
自分たちで映画を制作して自由を手に入れようと提案したのは彼女でした。
彼女は私に真実を与えてくれました。私が舞い上がっている時には地に足をつけさせてくれた。
彼女以外の顔、存在、息遣いは想像できません。私にとって彼女は祝福です。
本当にそうなのです」 (『Vanity Fair』誌へのコメントより)
なお、二人の間に子供はいません。
ロベルト・ベニーニの主な功績
ヴェネツィア国際映画祭での栄誉
2021年の第78回ヴェネツィア国際映画祭において、長年の功績を称えられ金獅子生涯功労賞を受賞しました。
多才な執筆活動
俳優や映画監督としてだけでなく、作家としても活動しており、これまでに10冊の著書を出版しています。
学術的評価
その文化的な貢献から、イタリア国内で9つの名誉学位を授与されているほか、カナダのトロント大学からは法学の名誉博士号を贈られています。
引用文献 :Chi è Roberto Benigni: biografia, carriera e patrimonio
次回2026年4月8日は「Luca Pacioli」です。
2026 年 3 月 18 日公開
【第38話】トスカーナ州出身の著名人:その14 オリアーナ・ファッラチ(Oriana Fallaci)
オリアーナ・ファッラチ(フィレンツェ、1929~2006)
オリアーナ・ファッラチは、20世紀のイタリア・ジャーナリズム界において最も象徴的な人物の一人でした。その独特なスタイルと、恐れを抱かずに立ち向かう取材への勇気によって、現代文化に消えることのない足跡を残しました。
コリエーレ・デッラ・セーラ紙の元編集長フェルッチオ・デ・ボルトリ氏は彼女を「我々の最も有名な女性作家」 と呼び、ロサンゼルス・タイムズ紙は彼女を「事実上世界の誰もが否定しないジャーナリスト」 と評しました。
1929年6月29日にフィレンツェで生まれた彼女は、自由とレジスタンス(抵抗運動)の価値観が深く刻まれた環境で育ちました。第二次世界大戦中、まだ十代だった彼女はイタリアのレジスタンス運動に参加しました。この経験が彼女の性格を形成し、闘争心を養うことになります。反ファシストの活動家であった父エドアルド・ファッラチが、幼い彼女をファシズム政権とナチス占領に対する抵抗運動へと導いたのです。
彼女は最初、医学の道に進みますが、執筆への情熱のためにすぐに中退します。1950年代にジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせ、イタリアの主要な雑誌と提携。雑誌『エポカ(Epoca)』でデビューし、その後『レウロペオ(L'Europeo)』で活動しました。後にニューヨークへ移住し、経済成長に沸くアメリカ社会の矛盾や、人種間の緊張といったテーマを扱った記事を執筆しました。
1960年代から70年代にかけて、彼女は非常に有名なレポーターとなります。ベトナム戦争や中東紛争といった現代の中心的課題に取り組み、影響力のある政治家や著名人、時の人々にインタビューを行いました
戦場ジャーナリスト、オリアーナ・ファッラチ
オリアーナ・ファッラチのキャリアは、1960年代に戦派特派員としての役割を引き受けたことで決定的な転換期を迎えます。彼女はベトナムに赴き、極めて冷静かつフィルターを通さないありのままの言葉で紛争を伝え、同時代で最も大胆なレポーターの一人としての地位を確立しました。ベトナムでの仕事は、同僚からの尊敬だけでなく、国際的な確固たる名声も彼女にもたらしました。
その後の数十年間、ファッラチはインド・パキスタン戦争、中東危機、チリのクーデターなど、極めて重要な歴史的出来事を記録しました。1968年、メキシコシティでの学生デモを取材中、トゥレクルトゥラーレ広場の虐殺に巻き込まれ重傷を負います。しかし、この事件は、真実がたとえ不都合で危険なものであってもそれを伝えるという彼女の信念を、より強固なものにしました。
そのキャリアを通じて、ファッラチは権力者に対して恐れを抱かずに立ち向かう能力で際立っていました。政治指導者、宗教的権威、著名人へのインタビューは国際的な名声を博しました。彼女がインタビューした著名な人物には、アヤトラ・ホメイニ、ゴルダ・メイア、インディラ・ガンディー、ムアンマル・カダフィ、ヘンリー・キッシンジャーなどが名を連ねています。
ホメイニ師へのインタビューの後に『Ayatollah』のタイトルで本を出版しましたが、同書はイランでは発禁処分となりました。彼女の著作活動は多岐にわたり、ジャーナリズムのルポルタージュから小説まで幅広く展開しました。
彼女は晩年をニューヨークで過ごし、肺ガンとの闘病生活は『the Other One』の中で語っています。彼女は死の前日、2006年9月14日にイタリアに帰国し、生まれ故郷のフィレンツェの病院で9月15日の夜に死去しました。
『生まれてこなかった子への手紙』(1975年):
この作品は世界中で爆発的なヒットを記録し、数百万部を売り上げました。
Miss Fallaci - Trailer Ufficiale (2024)
参考文献 :Oriana Fallaci, il coraggio di scrivere
次回2026年3月28日は「Robertop Benigni」です。