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イタリア出身の著名人のお話
Personaggi illustri che sono nati in Italia

第1章 シチリア島出身の著名人

1) アルキメデス(Archimede)
(シラクサ、紀元前287頃生~シラクサ、紀元前212年頃没)
数学、物理学、発明の分野で卓越した業績を残した古代ギリシャの科学者。
シラクサの住民たちは、ある日、彼らの偉大な同郷人であるアルキメデスが通りを狂ったように走り回っているのを見て非常に驚きました。彼は走りながら「エウレカ!エウレカ(Eureka! Eureka!!)」と叫んでいたのです。ギリシャ語で「見つけた!見つけた!」という意味です。
この科学者は一体何を見つけたのでしょうか?何が起こったのでしょう?そう、彼は確かに何かを見つけたのです!入浴中に、自分の体が浸かっている水の量が自分の体の体積と同じであるために、自分が浮いていることに気づいたのです。今では周知のことですが、彼以前には、誰もこの現象に気づいていませんでした。だからこそ、彼はとても喜んでいたのです。

古代の最も偉大な科学者の1人であるアルキメデスは、紀元前287年から212年頃まで、シラクサの歴史の中で最も悲劇的な時代に生きていました。アルキメデスは、愛する街の陥落を防ぐために、多くの兵器を考案しました。彼は「ウストリ(ustori)」と呼ばれる奇妙な鏡を作り、太陽光線を集めて敵の船に照射し、燃やしたのです。しかしながら最終的に街は陥落し、ローマ人たちによって恐ろしい略奪を受けました。
ところが、ローマの執政官マルケルスは、兵士たちにアルキメデスを尊重し、彼の髪の毛一本も傷つけないように命じていました。しかし、この偉大な人物は、高齢で耳が聞こえず、爆弾や戦争の音を聞くことができず、複雑な機械の中で研究に没頭していました。そこで、兵士は彼がアルキメデスであるとは知らずに殺してしまいました。
アルキメデスを大切に思っていた執政官マルケルスの悲しみは大きく、偉大な科学者アルキメデスのために記念碑を建てました。
1. ラファエロの「アテネの学堂」に描かれたアルキメデス?
ルネサンス期の巨匠、ラファエロが描いた「アテネの学堂」は、バチカン美術館で見ることができる有名な絵画です。この作品には、古代ギリシアの哲学者や科学者が描かれていて、哲学者プラトンとアリストテレスは、構図の中心に位置しています。その中に手前でコンパスを使って何かを証明している数学者がいます。真実は定かではありませんが、この人物を、アルキメデスだと考える人もいれば、ユークリッドだと考える人もいます。

2. 円周率の近似値を最初に求めたのはアルキメデス
アルキメデスは、円周率(π)の近似値を最初に科学的に求めた人物としても知られています。彼は、円に内接する多角形と外接する多角形の周長を計算することで、円周率の範囲を絞り込みました。
現在では、円周率は3.14159...と無限に続く数であることがわかっていますが、アルキメデスが求めた近似値は、今日の数学においても重要な意味を持っています。ちなみに、3月14日は円周率の日とされており、3.1415の近似に合わせるために、午後3時15分からこの日を祝う人々もいます。

引用文献:Viaggi e Vacanze in Italia - IlComuneInforma
次回3月8日は「ヴィンチェンツォ・べッリーニ: Vincenzo Bellini」です。

( 第1章 シチリア島出身の著名人 )

2) ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)
(カターニア、1801年生 - プトー、1835年没)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、イタリアのベルカントオペラを代表する作曲家の一人で、「カターニアの白鳥 “Cigno catanese”という愛称で親しまれました。
ハインリヒ・ハイネは「フィレンツェの夜」の中で、ベッリーニの容姿を以下のように描写しています。
「彼は背が高く、すらりとした体型で… 顔は整っていて、やや面長で、青白いピンク色をしていた。髪は金色に近いブロンドで、まばらな巻き毛にしていた。額は非常に広く、気品があった。鼻は真っ直ぐで、目は青く、青白かった。口は均整が取れていて、顎は丸かった。彼の顔立ちには、どこか曖昧で、特徴がなく、乳白色のようなところがあり、その乳白色の顔には、時折、甘酸っぱい苦痛の表情が浮かんだ。」

1801年にカターニアで生まれたベッリーニは、父親は作曲家であり、父方の祖父、ヴィンチェンツォ・トビア・ニコラ・ベッリーニは、高名な宗教音楽の作曲家でした。幼い頃から音楽の才能を発揮し、1819年にはカターニア市から奨学金が与えられ、ナポリの王立音楽院に通いました。ナポリでの経験を経て、オペラ『海賊』(1827年)と『異国の女』(1829年)は、ミラノ・スカラ座で大成功を収め、その後5つのオペラを作曲し、特にミラノの観客のために書かれた『夢遊病の娘』と『ノルマ』(どちらも1831年に上演)が最も成功しました。

ベッリーニのキャリアと芸術における決定的な転換期は、イタリアを離れパリへ向かったことでした。ここで彼は、フレデリック・ショパン(1810年~1849年)をはじめとするヨーロッパで最も偉大な作曲家たちと交流し、彼の音楽言語は、常に変わらぬ旋律のインスピレーションを保ちながらも、新しい色彩とソリューションで豊かになりました。パリに住んでいたジョアキーノ・ロッシーニ(1792年2月29日~1868年)は、彼を自分の愛弟子と考えていました。

彼の最後のオペラ『清教徒』は、1835年に初演され、大成功を収めました。しかし、才能溢れるこの芸術家は、1830年初めに感染したアメーバ性腸感染症のため、1835年にフランスのプトーでわずか33歳で早逝しました。
学者のヌンツィオ・バルバガッロは、ベッリーニの死が発表されたとき、カターニアの住民は衝撃を受け、まるで近親者が亡くなったかのように、喪服を着て市立劇場での「ノルマ」の公演に出席したと書いています。

1. マッシモ・ベリーニ劇場:Teatro Massimo Vincenzo Bellini
マッシモベリーニ劇場は、南イタリアのシチリア島カターニアにあるヴィンチェンツォ・ベリーニ広場にあるオペラハウスです。ベッリーニにちなんで名付けられ、1890年5月31日に作曲家の傑作「ノルマ」が演奏されて発足しました。
2. 1985年のイタリア銀行発行の5000リラ紙幣。
表面にはヴィンチェンツォ・ベッリーニの肖像画、背景には大きなオペラハウスが描かれています。 裏面には、ノルマを連想させる木のそばに立つ女性像が描かれています。


3. なぜ 「Pasta alla Norma」?
ベッリーニの重要なオペラの名前が、カターニアのパスタ料理の名前に使われています。
シチリア演劇の劇作家、ニーノ・マルトーリオが、ある日、トマトソース、揚げナス、塩リコッタチーズを使ったパスタ料理を出されたとき、余りの美味しさに「これはまさにノルマだ!」と叫び、その素晴らしさをベッリーニのオペラに例えたことに由来すると言われています。



引用文献:Balarm.it storia e tradizioni
次回3月18日は「ナターリア・ギンズブルグ: Natalia Ginzburg」です。