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【第25話】トスカーナ州出身の著名人:その1 ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)

ダンテ・アリギエーリ:Dante Alighieri(1265年-1321年)は、
イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。
政界を追放され放浪生活を送りながらも文筆活動を続けた人物であり、
至高の詩人であるとともに "イタリア語の父" として知られています。
ダンテ・アリギエーリは、フィレンツェで小貴族の家庭に生まれました。生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられました。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形です。
ダンテは修道院が経営するラテン語学校、後にボローニャ大学に入学し、哲学や法律学、修辞学、天文学などを研究しました。カヴァルカンティとボローニャ大学で知り合い、カヴァルカンティにより詩作する意欲をもらったとされています。
俗語による作品:
※「俗語:volgare」とは、イタリア語の祖形にあたるトスカーナ方言を中心とした中世イタリアの口語のことです。
ダンテを代表する最初の詩文作品、『新生:La Vita Nuova』(1293–1294年)は、ダンテの俗語による最初の体系的な作品です。 これは、詩と散文の部分が混在した作品で、その内容は現実の出来事、つまりダンテのベアトリーチェへの愛、最初の出会いから彼女の死までの理想化された物語です。ベアトリーチェは、神へ昇るための手段である天使のような存在として描かれています。『新生』は、ベアトリーチェへの愛を通じて起こる、詩人の精神的な再生の物語です。
ダンテがベアトリーチェと出会ったポンテ・サンタ・トリニタ(ヘンリー・ホリデー)
『新生:La Vita Nuova』によれば、1274年、春祭りの日にダンテは同い年のベアトリーチェ・ポルティナーリ(Beatrice Portinari:1266-1290)に出会い、魂を奪われるかのような感動を覚えたと言っています。この時、ダンテは9歳でした。それは束の間の出会いで、記憶の中に埋もれていましたが、9年後、18歳になったとき、二人はサンタ・トリニタ橋のたもとで再会しました。二人は目を合わせ、彼女はダンテに挨拶をし、ダンテの心を永遠に掴みました。この瞬間から、ベアトリーチェは偉大な詩人のミューズとなりました。
1285年にダンテはジェンマ・ディ・マネット・ドナーティと結婚し、3人の子供をもうけました。
ベアトリーチェは19歳で銀行家に嫁ぎ、1290年に24歳で病死してしまいます。彼女の死を知ったダンテは古典を読み耽って心の痛手を癒そうとしました。そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて『新生』を著したのです。その後、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描きました。
『神曲:Divina Commedia』(1306年–1321年)』は、イタリア文学における最も偉大な叙事詩と見なされています。 これは、ダンテがキリスト教の冥界の三つの王国、すなわち地獄(Inferno))、煉獄(Purgatorio)、天国(Paradiso)を旅する想像上の旅の物語です。100の歌(それぞれ詩編、地獄、煉獄、天国が33歌ずつ、そして作品全体への序章となる1歌)から三行韻詩(terzine)で構成されています。『神曲』は、神の裁きによって罰せられたり、報われたりしたダンテの時代の有名人の例を通して、道を見失った人々に「正しい道」を示すことを目的としています。

ドメニコ・ディ・ミケリーノによる1465年の絵画
ダンテの政治活動は1290年頃に始まり、1295年には医師・薬剤師会の会員として活動を続け、その後、百人評議会、人民大将特別評議会にも参加し、最終的に修道院長に任命されました。ダンテはまた、外交官としても活躍し、イタリアの複数の都市で大使を務めました。
当時、フィレンツェは政治的にグエルフィ党とギベリーニ党という二つの対立する党閥に分かれており、ダンテはグエルフィ党の支持者でした。後にグエルフィ党は白派と黒派に分裂し、ダンテは(穏健ではあったものの)白派に味方しました。1301年、ダンテが教皇ボニファーチョ8世への大使としての任務に関連した政治的な理由でローマに滞在していた際、黒派が権力を掌握し、ダンテを汚職の罪で告発し、1302年3月に欠席裁判で死刑を宣告しました。ダンテは有罪判決を受けて、残りの人生を亡命生活の中で過ごし、熱心な知的活動に専念しました。
彼は晩年をラヴェンナで過ごし、地元の名家に客人として招かれ、政治的な地位も歴任しました。外交旅行中にマラリアに感染し、それが死因となりました。1321年9月13日から14日にかけての夜、ラヴェンナで56歳という若さで亡くなりました。
イタリアの2ユーロ硬貨のダンテ
引用文献:SOCIETA' DANTE ALIGHIERI - COMITATO DI ATENE
次回11月8日は「Giotto di Bondone」です。

【第24話】ウンブリア州出身の著名人:その2  ピエトロ・ヴァヌッチ(Pietro Vanucci detto il Perugino)

ピエトロ・ヴァヌッチ、通称イル・ペルジーノは(1448年頃 -1523年)、ペルージャ近郊のチッタ・デッラ・ピエーヴェで生まれました。
彼は、フィレンツェでヴェロッキオの工房に通い、ポッライオーロ、ボッティチェッリ、レオナルド、そしてピエロ・デッラ・フランチェスカの芸術からインスピレーションを受けました。特にピエロ・デッラ・フランチェスカからは、明確に定義された遠近法と空間構成を模倣しています。
1478年、彼はローマの教皇エウゲニウス4世に呼ばれ、今日では失われた受胎告知の礼拝堂を装飾しました。
1481年には、教皇シクストゥス4世の意向により、ウンブリアとトスカーナの最高の芸術家たちが教皇庁に招集されました。その結果、「礼拝堂」には芸術家で溢れた作業場が設けられました。そこでペルジーノとボッティチェッリは、ピントゥリッキオ、ギルランダイオ、シニョレッリなどと共に共同で作業しました。要するに、歴史上、ここで重要な芸術家たちの出会いがあったのです。
この礼拝堂で、ペルジーノは弟子たちの助けを借りながら、1481年から1483年の期間にわたり様々なフレスコ画を制作しました。彼の傑作とされる『鍵の授与』もそのうちの一つです。この作品では、壮大な構成の枠組みと均衡の取れた古典的な荘厳さが採用されており、ラファエロの『聖母の結婚』にも模範とされました。
『鍵の授与』の右側のグループには、鑑賞者を見つめる黒い服を着た人物がおり、これはペルジーノの自画像とされています。

この絵画の構成の中心は、背景にそびえ立つ神殿であり、そこから舗装路の線が放射状に伸びています。前景には、画家自身を含む多くの人物が配され、その構成は神殿の背景と見事に調和しています。
この巨匠の絵画を特徴づけているのは、太い柱の上に設けられたロッジアの構成と、例えばワシントンの『幼子を抱く聖母』に見られるような、穏やかで微笑んだ表情の卵形の顔をした女性像です。
その後の数年間で、この芸術家が獲得した名声は非常に大きなもので、イタリアの主要都市に招かれ、絶大な人気を誇る売れっ子画家として、多くの宗教画、特に祭壇画を残し、尊敬を込めて「神の如き画家(Divin Pittore)」とも称されています。
画家は1523年にフォンティニャーノで亡くなりました。
起業家精神を持つ画家
ミケランジェロが歴史上最も高額な報酬を得た芸術家であったという認識が一般的です。一方、ペルジーノは初期の職業画家の一人であったと断言できます。その証拠に、彼の非常に広範な制作活動があります。彼は約200点の作品を描き、システィーナ礼拝堂の初期の装飾段階の主役の一人でした。しかし、トスカーナの芸術家(ミケランジェロ)と同様に、ペルジーノにも起業家的な側面がありました。1493年、建築家の娘と結婚し、自身の工房を持つようになります。フィレンツェに工房を所有した後、1501年にはペルージャにもう一つの工房を開きました。ペルジーノは、精力的な働き手であり、ヴェロッキオの弟子であり、ラファエロとピントゥリッキオの師でもあり、レオナルドの学友でもありました。
引用文献:Storiadellarte.com https://www.storiadellarte.com › Vita di Pergino
次回10月28日は「Dante Alighieri」です。

【第23話】ウンブリア州出身の著名人:その1  フランチェスコ・ダッシジ(Francesco dAssisi)

Francesco d'Assisi (c. 1181 – 3 October 1226)
聖フランチェスコは、1182年(または1181年)9月26日、ウンブリア州アッシジで生まれました。
父ピエトロ・ベルナルドーネは裕福な毛織物商でした。フランチェスコは恵まれた青年時代を送り、優れた文学教育を受けました。
この時期、イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立し、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立していました。アッシジでは1198年から1200年にかけて反乱が起き、平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されました。隣町のペルージャに逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛けたのが1202年のことでした。フランチェスコも戦闘に参加したもののた、アッシジは敗北し、1年以上にわたる投獄生活の中で、深い宗教的危機を経験し、それによってキリスト教の真の原理を発見しました。
アッシジに戻ると、彼は生活を一変させます。家族の富やあらゆる現世の財産を放棄し、貧困、謙遜、神とすべての人々への愛に触発された生活を選びます。彼は、数少ない仲間と共に福音の説教を始めます。
「着物を返すフランチェスコ」(画:ジョット・ディ・ボンドーネ、1305年頃)
着ていたものを全部脱いで父に返し、世俗とのきずなを完全に絶ったフランチェスコ。
1209年、聖フランチェスコとその仲間たちはローマに行き、教皇イノチェンツォ3世から口頭で会則の承認を受けます。こうして小さき兄弟会(フランシスコ会)が誕生しました。
アッシジに戻ったフランチェスコは、彼の考えに共鳴したアッシジの貴族の娘であるキアラと共に女性の修道会であるクララ会を設立します。
キアラはまだ19歳でしたが、フランチェスコのプロジェクトに参加することを固く決意していました。
その後、アフリカ、オリエント、ドイツ、フランス、ハンガリー、イングランドなどへ宗教的な布教の旅に出ます。イタリアに戻ると、彼はフランシスコ会の指導権をピエトロ・カッターニに、その後フラテ・エリアに譲ります。その間に、フラテ・チェザリオ・ダ・スピラと共に第一次会則(Regola prima)を準備し、後に宗教的な行動規範である第二次会則(Regola seconda)の最終版を口述します。
1223年11月29日、教皇オノリオ3世がフランシスコ会の会則を承認し、正式なものとなります。
「聖痕を受けるフランチェスコ」(画:ジョット、1325年)

言い伝えによると、聖フランチェスコは1224年9月にヴェルナ山で聖痕(stigmate)を受けます。衰弱した彼の体に加えて、重い目の病気も発症しました。目上の人の勧めで治療のためにリエーティに向かいますが、治療は効果がありませんでした(1225年〜1226年)。
1226年、死期が近いことを悟り、自分が最初に建てた小さな教会、アッシジ近郊のポルツィウンコラに運ばれることを求め、土の中にそのまま埋葬されることを望みます。
聖フランチェスコは、極度の貧困の中で1226年10月3日に亡くなりました。
フランチェスコ・ダッシジ:聖人、イタリアの守護聖人
1228年7月16日、教皇グレゴリウス9世によってフランチェスコ・ダッシジは聖人に列せられます。
1939年6月18日、教皇ピオ12世は、彼をシエナのカタリナと共にイタリアの守護聖人と宣言します。
バジリカは、聖フランチェスコが埋葬されることを望んだ場所に建っています。
バジリカが建つ丘は、中世には死刑囚が埋葬されていたため「地獄の丘」として知られていましたが、
バジリカの最初の石が置かれた際に「楽園の丘」と改名されました。
アッシジの旧市街(現在の市壁の内部)西側に壮麗なゴシック建築「聖フランチェスコ聖堂」があります。この聖堂の建設は1228年に着手され、1230年には早くも下部教会が完成してフランチェスコの遺骸が移されました。さらに1239年には上部教会も完成し、巨匠ジョット・ディ・ボンドーネによって「聖フランチェスコの生涯」が描かました。これはフランチェスコの事績を28枚のフレスコ画であらわしたものであり、鳥に説教するなどの聖人のイメージを広めました。フランチェスコの墓は、1818年に発見されて今では公開されています。
「特別な教会(specialis ecclesia)」、すなわち「地球上で最も美しい祈りの家」と称されるこの場所は、調和、美、そして神聖によって包み込まれています。
引用文献:Art e Dossier-Francesco d'Assisi
次回10月18日は「Pietro Vanucci detto il Perugino」です。

【第22話】マルケ州出身の著名人:その4 マリア・モンテッソーリ( Maria Montessori )

(Maria Montessori、1870年8月31日 - 1952年5月6日)
マリア・モンテッソーリは1870年8月31日にキアラヴァッレ(アンコーナ県)で生まれ、生涯を通じて教育者、教育学者、医師、児童神経精神科医、哲学者、イタリアの科学者として活動しました。
イタリアでは、彼女は医学部を卒業した数少ない女性の一人でした。彼女は、自身の名を冠した子ども向けの教育方法、すなわち「モンテッソーリ・メソッド: Metodo Montessori」のおかげで世界的に有名になりました。このメソッドは当初イタリアで使われていましたが、すぐに世界中で採用されました。
1884年、ローマに女子も勉学を続けることを許可するレジア・スクオーラ・テクニカ・ミケランジェロ・ブオナローティ(Regia scuola tecnica Michelangelo Buonarroti)が設立されましたが、これは当時としては異例のことでした。マリア・モンテッソーリは、現在も存在するこの研究所、すなわちレオナルド・ダ・ヴィンチ技術研究所(l'Istituto tecnico Leonardo da Vinci)を卒業した最初の10人の女子生徒の一人となりました。高校でマリアは数学と科学全般への愛を発見しましたが、すぐに医学部に入学するという夢を叶えることはできませんでした。なぜならリチェーオ・クラッシコ(主に大学進学を目的とした高等学校)の卒業証書が必要だったからです。彼女は技術研究所を卒業したため、科学科に入学し、2年後に医学部に移りました。
医学の研究中、彼女は児童神経精神医学を専門とすることを決意しました。なぜなら、精神的な問題を抱える子どもたちを助けることに尽力し、彼らの治療と教育に新しいアプローチを取り入れることを目指したからです。人文科学の知識を深めるために、マリアは哲学のコースを受講しました。
彼女はローマのサンタ・マリア・デッラ・ピエタ精神病院(Manicomio di Santa Maria della Pietà)に入院している子どもたちや障害を持つ子どもたちとの現場での作業を続け、医学の準備を活かし、新しい教育アプローチを考案することに成功しました。
1898年、卒業の2年後、ラ・サピエンツァ大学(l'Università La Sapienza)の精神科クリニックで助手として働いていた間に、マリア・モンテッソーリは密かに母親になりました。息子のマリオは、同僚のジュゼッペ・モンテサーノとの関係から生まれましたが、彼は結局別の女性と結婚しました。マリアは妊娠を秘密にし、生まれたばかりの息子と別れることを余儀なくされました。実際、彼女は彼をラツィオ州のある県に住む夫婦に預けることに決めました。それから14年後、彼女が教育学の分野で確立された女性になったときになって初めて、マリオを引き取り、伯母として彼の法定後見人となりました。彼女は世間には常に、その少年は自分の甥だと言い続け、1952年5月6日に亡くなった際、遺言で初めて真実を公表しました。
1907年、彼女はローマのサン・ロレンツォ地区に最初の「子どもの家:Casa dei Bambini」を設立し、そこで障害を持つ子どもたちに使用した方法論を初めて適用しました。1908年には、ミラノにも子どもの家が開設されました。
1913年には最初の国際コースが開催され、モンテッソーリ・メソッドはアメリカ合衆国にも伝わりました。1924年、ローマにモンテッソーリ国立事業団(Opera Nazionale Montessori)が設立され、今日まで活動しており、彼女のメソッドに従って教師を訓練しています。
当初、ファシズムは子どもの家の設立を支持していましたが、政権との対立によりマリアはイタリアから離れるよう促されました。亡命時代、彼女は1899年に受け入れた神智学協会(la società Teosofica)の会員として、インドのアディヤール(Adyr)に住みました。第二次世界大戦中、マリアと息子のマリオは敵国の国民であったため捕虜として拘束されました。マリアはヨーロッパに戻り、イタリアに短期間滞在した後、オランダに移住し、1952年にそこで亡くなりました。
その間にも、モンテッソーリ・メソッドは世界中でますます広まっていきました。
マリア・モンテッソーリは、イタリアの1000リラ紙幣(1990年から1998年まで印刷)に描かれた唯一の女性です。
マリア・モンテッソーリ生誕100周年記念切手(1970年8月1日)
引用文献:Maria Montessori: storia, metodo educativo e riconoscimenti
次回10月8日は「Francesco d'Assisi」です。

【第21話】マルケ州出身の著名人:その3 ドナート・ブラマンテ(Donato Bramante)

Donato Bramante (1444 –1514)
ブラマンテはウルビーノ県フェルミニャーノで生まれました。
彼の幼少期や初期の教育については、残念ながらほとんどわかっていません
彼の歴史が記録され始めるのは1476年からです。彼はウルビーノでキャリアをスタートさせ、フラ・カルネヴァーレに師事し、その後ピエロ・デッラ・フランチェスカの弟子となります。
この頃、ウルビーノ公国は非常に活気があり教養の高い場所でした。イタリアにおける最も権威ある人文主義の中心地の一つと見なされており、ブラマンテはペルジーノ、ピントゥリッキオ、ジョヴァンニ・サンティなど、当時の多くの芸術家と出会う機会がありました。
ブラマンテはイタリア各地を旅し、特にロンバルディア州でその才能を最大限に発揮しました。1477年にはベルガモでポデスタ宮殿のファサードにフレスコ画を描き、1478年にはミラノに到着しました。彼の最初の仕事は、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのポルタ・ティチネーゼ宮殿の修復でした。この地で彼は画家としての活動も開始し、多くの作品を残しました。
ミラノ時代は芸術的に非常に活発な時期で、彼は文学への情熱も追求しました。彼は音楽家や詩人としても評価されていました。25篇のソネットを含む彼の詩集が現存しており、その半分以上は愛をテーマにしたものです。
1482年、彼は天才レオナルド・ダ・ヴィンチと重要な友情を築きました。二人はスフォルツァ城やサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の建設に協力しました。
彼はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の後陣(トリブーナ)という重要な仕事を引き受け、さらに旧聖具室と小回廊の設計も手がけました。
1490年、彼はミラノに定住し、ほぼ独占的に枢機卿アスカニオ・スフォルツァやルドヴィーコ・イル・モーロのために建築家としての活動を行いました。ルドヴィーコ・イル・モーロからは、サンタンブロージョ大聖堂の中庭を含む、非常に権威ある仕事を任されました。



ミラノ最古の教会
  「サンタンブロージョ大聖堂」
【ローマでの活動とサン・ピエトロ大聖堂】
この頃、ミラノはフランス軍に占領され、スフォルツァ家の権力は失墜し、多くの芸術家が街を離れることを決意しました。1499年、ブラマンテもローマへ向かいました。ここで彼は長年の友人レオナルドと離れ離れになりましたが、フラ・ジョコンド、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、そして特にラファエロやミケランジェロといった非常に重要な建築家と出会い、彼らから多くを学びました。
※「サン・ピエトロ大聖堂」の礎が築かれたのは324年、キリスト教を公認した「コンスタンティヌス帝」の命によって「聖ペトロ」の墓の上に建設された聖堂が元になっています。最初に(324年~329年に)この地に築かれた聖堂は老巧化したため、1506年、教皇ユリウス2世によって再建が始まり、建設工事は1世紀以上の長期にわたり、設計や監修には、ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなど、時代の寵児と言われる天才芸術家が10人以上も携わりました.
1506年、ブラマンテはユリウス2世によって教皇庁の建築家に任命され、古代コンスタンティヌス朝のサン・ピエトロ大聖堂を再建することになりました。しかし、紙の上の計画から実際の建設へと移行するにつれて、大きな問題が生じました。ブラマンテは古代大聖堂の後陣と翼廊を解体しましたが、これは建築に対して非常に伝統的な見解を持つ聖職者たちの間で大きな論争を引き起こしました。さらに、ユリウス2世が亡くなりました。
ブラマンテは、永遠の都ローマで10年以上にわたる集中的な仕事、おそらく彼の歴史の中で最も重要で代表的な時期を経て、1514年4月11日にローマで亡くなりました。
引用文献:Biografia, storia e vita del Bramante
次回9月28日は「Maria Montessori」です。

【第20話】マルケ州出身の著名人:その2 ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)

ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)

※「Gioachino」 は、彼の出生証明書に記載されている正式な名前です。「Gioacchino」は、イタリア語の一般的な綴りとして広く使われており、こちらも正式なものと見なされています。この表記の違いは、彼の存命中から存在していました。どちらの表記も彼の名前として受け入れられており、現代でもどちらも使用されています。
ジョアキーノ・ロッシーニは、1792年2月29日にペーザロで生まれました。父親のジュゼッペは Vivazza (ヴィヴァッツァ:活力にあふれた) という愛称で知られるホルンとトランペット奏者、母親のアンナ・グイダリーニは歌手でした。ロッシーニは幼い頃から両親の巡業に同行しました。

ロッシーニは母親アンナ・グイダリーニへの深い愛情と崇拝の念を抱いていました。彼は母親を次のように描写しています。
「すらりとして均整がとれており、肌はつややかで抜けるほど白く、歯並びは美しく、黒髪はふさふさとして、カールしていた。いつも陽気で機嫌がよく、口元には永遠の微笑みを、顔には天使のような甘い表情を浮かべていた。」
アンナ・グイダリーニ:Anna Guidarini (1771–1827)
彼は若い頃から並外れた音楽の才能を示し、1806年にボローニャの音楽学校に入学し、チェロとピアノを学びました。わずか14歳で、すでに劇場の公演で報酬を得ていました。
ボローニャのフィルハーモニー・アカデミーに「歌手」として所属し、後に妻となる歌手イザベラ・コルブランと出会います。




イザベラ・コルブラン:Isabella Colbran (1784ー1845年)
彼のキャリアは急速に発展し、1810年には18歳で初のオペラ・ブッファ『結婚手形:La cambiale di matrimonio』を作曲しました。1815年には、23歳でナポリのサン・カルロ劇場の監督に就任し、年間1作以上のオペラを作曲する契約を結びました。この時期に作曲された最も有名な作品には、オペラ史上最も有名なオペラ・ブッファとされる1816年の『セビリアの理髪師:』『チェネレントラ:』『セミラーミデ:Semiramide』などがあります。1810年から1823年のイタリア滞在中に、彼は30以上のオペラを作曲しました。
イタリアを離れた後、ロッシーニはパリに、その後ロンドンに行き、再びパリに戻りました。1826年、パリの聴衆は彼の作品に熱狂し、王室大臣はロッシーニにパリでの今後の作品を保証する魅力的な契約を提案しました。しかし、彼は1829年に初演された傑作『ウィリアム・テル: Guglielmo Tell』を最後に、オペラ作曲家としてのキャリアを終えました。
その後、1835年には『音楽の夜会:Soirées Musicales』を出版し、他の短い作品も作曲しました。
サロンに集う芸術家たち
前列 後ろ姿 マリー・ダグー夫人
真ん中の列左から デュマ ジョルジュ・サンド 
ピアノを演奏しているのはリスト
後列 左から ヴィクトル・ユーゴー パガニーニ ロッシーニ
ピアノの上の胸像 ベートーベン
1832年から、彼は深刻な神経衰弱に苦しみ始めました。その後54歳で、文豪・バルザックの愛人で高級娼婦オランプ・ペリシエと恋に落ちて結婚、オランプは淋病、うつ病、直腸癌というロッシーニを支えて暮らします。1846年に最初の妻の死後、彼女と再婚しました。

オランプ・ペリシエ:Olympe Pélissier (1799-1878年)

1859年、彼はパリのパッシーに別荘を建て、そこで妻とパリでの生活を交互に過ごしました。1868年、彼はこの地で亡くなりました。彼の墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあり、他の偉大なイタリア人たちと共に埋葬されています。
彼の輝かしい音楽キャリアに加え、ロッシーニは料理への情熱でも知られていました。この情熱が、彼をフランス宮廷での名誉ある役割へと導き、彼の料理の腕前は音楽の才能と同じくらい高く評価されました。

ロッシーニの言葉:
「魂にとっての愛がそうであるように、食欲は体にとっての愛である。胃は我々の情熱という大オーケストラを指揮するマエストロだ。食べること、愛すること、歌うこと、消化すること、これらは人生という喜劇オペラの4つの幕だ。」
こちらもご覧ください
https://aulamagna.exblog.jp/11694904/

引用文献:Gioachino Rossini. Biografia (Museo Nazionale Rossini)
次回9月18日は「Donato Bramante」です。

【第19話】マルケ州出身の著名人:その1 ラッファエッロ・サンツィオ (Raffaello Sanzio )

ラッファエッロ・サンツィオ (Raffaello Sanzio )

ラファエロは、レオナルド、ミケランジェロと共にイタリア・ルネサンスの三大巨匠の一人であり、16世紀を代表する画家兼建築家です。彼は1483年にマルケ地方のウルビーノで生まれ、わずか37歳で1520年にローマで亡くなりました。
画家であった父ジョヴァンニ・デ・サンティから絵画の基礎を学んだと考えられています。しかし、最も有名な師はペルジーノ(1448-1523)で、ラファエロは約4年間彼のもとで修行しました。

1504年から1508年にかけて、ラファエロはフィレンツェで過ごしました。この若い芸術家は、フィレンツェの豊かな芸術的・文化的雰囲気とその街の魅力に惹かれてやってきました。彼はすぐに個人から多くの注文を受け、多くの重要な芸術家と出会いました。フィレンツェでの滞在とレオナルド(1452-1519)やミケランジェロ(1475-1564)との出会いは、彼のスタイルを開花させました。それは、自然の限界を超えた理想的な美の表現と、光り輝く描写を特徴としています。これらの特徴は、一連の「聖母子像」の中でも特に《ひわの聖母;La Madonna del Cardellino》や、数多くの肖像画に現れています。



※《ひわの聖母:La Madonna del Cardellino》
1547年のフィレンツェでは数か月にわたって雨が降り続き、8月のアルノ川の氾濫の後、11月にはコスタ・デイ・マニョーリの丘で地滑りが発生しました。この地滑りにより、ナージ宮殿も崩壊しました。そこには、40年前にロレンツォ・ナージの結婚を記念してラファエロが描いた美しい《聖母子と幼い洗礼者ヨハネ》が保管されていました。この絵画は瓦礫の中から17の破片となって発見されました。2000年から2008年に行われた最近の修復により、その本来の美しさが蘇りました。
1509年、ラファエロは教皇ユリウス2世にローマへ招かれました。このローマ時代は彼の円熟期であり、《アテネの学堂: la Scuola di Atene》を含む「署名の間」や「ヴァチカン宮殿のラファエロの間」のフレスコ画など、不朽の名作を生み出しました。
《システィーナの聖母: Madonna Sistina》ラファエロが描いた最後の聖母マリアであり、ラファエロが自身だけで完成させた最後の絵画です。1754年にドイツのドレスデンに持ち込まれ、その後ドイツの美術界に大きな影響を与え続けました。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られましたが、10年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの3つになっています。
サンツィオは主にその絵画で世界的に知られていますが、彼は多才な芸術家であり、その関心は絵画から建築、古代美術の研究にまで及びました。1514年、彼は教皇レオ10世により「サン・ピエトロ大聖堂の建築家」に任命されました。これは、亡くなる前にブラマンテがヴァチカン宮殿の新しい記念碑的な建築物の建設において、ラファエロを後継者として指名したことによるものです。このため、ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂の建設工事も引き継ぎ、ブラマンテの元々の計画にいくつかの修正を加え、亡くなるまで工事の責任者を務めました。サンツィオはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ礼拝堂、ヤコポ・ダ・ブレシア宮殿、アルベリーニ宮殿などを設計しました。
作者:ラファエロとジュリオ・ロマーノ
《キリストの変容:Trasfigurazione》はウルビーノ出身のこの芸術家による、詩的かつ芸術的な集大成を意味する作品でしたが、彼は完成させることなく1520年4月にローマで亡くなりました。
彼はパンテオンに埋葬され、ピエトロ・ベンボは彼に以下の墓碑銘を捧げました。
「ここにラファエロは眠る。彼が生きている間、母なる自然は彼に超えられることを恐れ、彼が死んだとき、彼と共に死ぬことを恐れた。」
『システィーナの聖母』のマリアの足下に描かれている翼を持った二人の天使は、この絵画自体の評価とは無関係に非常に有名なイメージになっています。1913年にアメリカ人演劇評論家、作家グスタフ・コビー(en:Gustav Kobbé)が「『システィーナの聖母』の画面下部に、祭壇にもたれかかるように描かれている天使以上に有名な天使は存在しない」と述べています。



引用文献:Raffaello Sanzio, maestro dell’arte italiana dalla vita breve
次回9月8日は「Gioachino Rossini」です。

【第18話】アブルッツオ州出身の著名人:その2  ガブリエーレ・ダンヌンツィオ (Gabriele D’Annunzio)

ガブリエーレ・ダンヌンツィオ (Gabriele D'Annunzio)(1863-1938)
ガブリエーレ・ダンヌンツィオは1863年3月12日、アブルッツオ州のペスカーラでブルジョア家庭に生まれました。一家は伯父アントニオ・ダンヌンツィオの莫大な遺産で生活していました。彼はプラートのチコーニーニ大学で高校を卒業し、在学中に最初の詩集『Primo vere:早春』を父親の費用で出版し、早くも成功を収め、当時の文芸雑誌に寄稿するようになりました。

1881年、文学部に登録し、ローマに移りますが、大学を卒業することなく、愛と冒険に満ちた豪華な生活を送りました。若きダンヌンツィオは、間もなくローマの文化的・世俗的な生活の中心人物となります。


Gabriele D'Annunzio a 7 anni.(ダンヌンツィオ 7歳)
ダンヌツィオの最初で唯一の妻となった
女公爵マリア・アルドゥイン・ディ・ガッレセ
『Canto novo』と『Terra vergine』(1882年)の成功の後、1883年には女公爵マリア・アルドゥイン・ディ・ガッレセとの駆け落ちと結婚が大きな反響を呼び、彼女との間に3人の子供が生まれます。彼は詩集『l'Intermezzo di rime』を著し、その「慎みのなさ」が激しい論争を巻き起こしました。自伝的な要素を多く含む彼の最初の小説『Il piacere:快楽』(1889年)は、この世俗的で美的感覚に満ちたローマでの若者時代を象徴する作品です。1894年、彼は新しい小説『Il trionfo della morte:死の勝利』を出版しました。彼の作品は、イタリア国外でも流通するようになります。
ローマで送った生活は彼を借金まみれにし、債権者から逃れるためにイタリア半島を転々とします。ヴェネツィアに到着した彼は、後に彼の生涯をかけた大恋愛の相手となる美しい女優エレオノーラ・ドゥーゼと出会います。ダンヌンツィオは彼女と共に旅をし、彼女にインスピレーションを得て多くの作品を書きました。この時期は、ニーチェを読み、超人の概念を自分のものにするようになった時期でもあります。超人思想は、彼の耽美主義の自然な延長のように思えます。なぜなら超人は、あらゆる社会的因習から離れ、文明社会やその制約に反抗する自由でほとんど動物的な精神として生まれ変わる存在だからです。この大スキャンダルとなった男女関係は1910年に終りを告げます。
この時期に彼はまた、演劇のための作品を書き始め、もう一つの重要な小説『Il Fuoco:炎』を書き、そしてイタリア王国の下院議員になりました。この立場から、彼は第一次世界大戦中にイタリアが参戦することを求めて戦いました。     
Eleonora Duse
そして彼は実際に紛争に直接参加し、いくつかの空戦に参加しました(彼はパイロットでもあります!)。負傷した後、片目の視力を失い、その療養中に小説『Il Notturno:夜想曲』を執筆しました。右目を失ったにもかかわらず、彼はブッカーリの嘲笑やウィーン上空の飛行といった有名な功績に参加して国民的英雄となりました。戦争の終結後、1919年に彼は一団の軍団兵を率いてフィウーメに行進し、その都市を占領しました。
その後、彼は国民的英雄として称賛され、ガルダ湖畔のカルニャッコにある別荘に隠遁しました。この別荘は後に、イタリアのヴィットリアーレ博物館・霊廟に変わりました。
今日、ヴィットリアーレ財団は一般公開されており、毎年約18万人が訪れます。ダンヌンツィオは、まさに比類のない生涯を送った後、1938年に亡くなりました。
トスティとダンヌンツィオ
1880年.当時17歳だったガブリエーレ・ダンヌンツィオは、画家ミケッティの邸宅で、既に名声を博していたフランチェスコ・パオロ・トスティと初めて出会いました。数か月後、『Visione:幻影』が作曲され、アブルッツォ出身の二人の芸術家による共同制作の始まりとなりました。二人はトスティが1916年に亡くなるまで親しい友人であり続けました。
トスティとダンヌンツィオのコラボレーションの作品には、 languore (倦怠)、sensualità (官能)、pene d'amore (恋の苦しみ)、malinconia (憂鬱)、sofferenza (苦悩)、amarezza (苦味)、dolcezza (甘美さ) が交互に現れています。1888年にダンヌンツィオがTribuna紙に書いた言葉そのものが、親友である作曲家との緊密な芸術的結びつきを物語っています。
「パオロ・トスティは、気分が乗っている時には何時間も音楽を作り続け、疲れることも、ピアノの前で我を忘れることもありませんでした。時には即興で、実に並外れた情熱と創造の喜びを持って…音楽が私たちを魔法の円の中に閉じ込めていたのです。」
この本の紹介文より:
ガブリエーレ・ダンヌンツィオは、ジョイス、プルースト、三島由紀夫を魅了した、近現代イタリアを代表する文学者であり、イタリア詩の伝統を受け継ぐ最後の天才、「詩聖」と称された詩人である。
しかし一方で、第一次大戦参戦をめぐる過激なナショナリストとしての運動は、「ファシズムの先駆者」ともいうべき存在であり、ムッソリーニに強い影響を与え、第二次大戦後は批判されてきた。ムッソリーニはダンヌンツィオから、独裁政治の思想と手法、協調組合主義、大衆宣伝、暴力的な弾圧などを学んだとされる。
本書は、破天荒な生涯を送った傑物の全貌を、英国伝記文学の伝統に連なる叙述で、歴史にも目配りしながら、生き生きと描いている。イタリアの国民的詩人にしてナショナリストのデマゴーグ、戦争の英雄にして色事師……いくつもの貌を持つ奇才のスキャンダラスな生涯に迫る、評伝の決定版。
本書は、優れたノンフィクション作品に授与される、サミュエル・ジョンソン賞、コスタ賞、ダフ・クーパー賞をトリプル受賞した。
引用文献:A-VITTORIALE degli Italiani: Gabriele D'Annunzio
次回8月28日は「Raffaello Sanzio」です。

【第17話】アブルッツオ州出身の著名人:その1 セルジオ・マルキオンネ(Sergio Marchionne)

イタリアの自動車産業を変えた革新者

セルジオ・マルキオンネ (Sergio Marchionne)
マルキオンネはポーカー好きで哲学の学位を持つ異色の経営者でした。彼は2004年にフィアットを破産から救い、世界第7位の自動車グループへと変貌させた起業家として記憶されています。

1952年6月17日にキエーティで憲兵隊員の息子として生まれたマルキオンネは、14歳で家族と共にカナダへ移住し、そこで哲学、経済学、法学の3つの学位を取得しました。彼はスイスで経営者としてのキャリアをスタートさせ、2002年にジュネーブのSGS社の最高経営責任者に就任しました。SGSでの手腕が認められ、2004年6月1日にはフィアットの最高経営責任者に就任します。彼は組織モデルを改革し、高級車ブランドの統合プロジェクトを密かに棚上げにし、各ブランドの商業的自立を回復させました。
(SGS:La Société Générale de Surveillance S.A.)
Fiat Grande Punto 2006

マルキオンネの経営下で、フィアットはアルファ159、ニュー・フィアット・ブラボー、フィアット・ニュー500、グランデ・プントといった新型モデルを次々と発売しました。グランデ・プントは2006年と2007年にイタリアで最も売れた車となりました。
世界を巻き込んだ深刻な経済・金融危機、特に自動車産業が打撃を受ける中、2009年初頭にマルキオンネは、フィアットを通じて他の重要な欧州および非欧州の自動車グループを買収し、フィアットを世界第2位のグループにしようと試みました。
2009年4月、マルキオンネはクライスラー買収をめぐり、米国政府や労働組合と長く困難な交渉を行いました。マルキオンネが実行した戦略のおかげで、クライスラーは2011年第1四半期に黒字に転じ、1億1,600万ドルの営業純利益を達成しました。
マルキオンネが主導したもう一つの重要な交渉は、経営難に陥っていたゼネラル・モーターズ(GM)傘下の欧州自動車メーカー、オペルの買収でした。オペルはドイツに4つの工場を持ち、赤字経営でした。しかしゼネラル・モーターズはオペルを自社内に留め、余剰工場をいくつか閉鎖しつつも、ブランドと生産を再建することを決定しました。
2014年10月13日、マルキオンネはルカ・コルデロ・ディ・モンテゼーモロに代わってフェラーリN.V.とフェラーリS.p.A.の社長に就任し、その職を2018年7月21日まで務めました。
2018年7月25日、彼はスイスの病院でこの世を去り、家族と多くのファンに衝撃を与えました。
Fiat Chrysler Automobiles の会長であり筆頭株主であるジョン・エルカンは、次のように述べています。 「過去14年間、フィアット、クライスラー、そして Fiat Chrysler Automobilesにおいて、セルジオはこれ以上ないほど最高の経営責任者でした。彼の知性、忍耐力、リーダーシップがあったからこそ、私たちは会社を救うことができたのです。セルジオが成し遂げた成果と、不可能だと思われていたことを可能にしてくれたことに、私たちは常に感謝しています。」
マルキオンネは決してフォーマルな服装を好まず、アンゲラ・メルケル首相との公式な会談のような場でも厳格なドレスコードを遵守することはありませんでした。彼のお気に入りは、インターネットでまとめて購入していた黒のクルーネックのセーターでした。社交界には興味がなく、本を読んだり、美味しい食事をしたりするのを好み、最期までそばにいたパートナーのマヌエラとのより普通の生活を望んでいました。
セルジオ・マルキオンネの有名な言葉
• 「フィアットを自動車界のアップルにしたい。そして、500は私たちのiPodになるだろう」
• 「庭師のように、エネルギーと才能を投資しなさい。そうすれば、あなたがすることすべてが一生、あるいはそれ以上長く続くでしょう。」



引用文献:Chi era Sergio Marchionne, il manager che rivoluzionò la Fiat
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【第16話】ラツィオ州出身の著名人:その3 ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia)

ルクレツィア・ボルジアの波乱に満ちた生涯

ルクレツィア・ボルジアは、1480年4月18日、枢機卿ロドリゴ・ボルジアと、ヴァンノッツァ・カッターネアとの間に、ローマ近郊のスビアコで非嫡出子として生まれました。この二人の間にはチェーザレ、フアン、ルクレツィア、ジョフレの4人の子が生まれました。ロドリゴは、特にその美しい金髪と薄い青い目を持つ幼い娘ルクレツィアに特別な愛情を注ぎました。
ロドリゴ・ボルジア、愛人ヴァンノッツァ・カッタ-ネアの家で。
1492年8月11日、ロドリゴはアレッサンドロ6世として教皇に選出されました。ロドリゴの教皇就任により、ボルジア家はイタリア半島における主要な家系として急速な政治的台頭を遂げます。実際に、ルクレツィアはすでに11歳の頃からロドリゴ・ボルジアの戦略の一部となっていました。
最終的に選ばれたのはスフォルツァ家の一員である26歳のペーザロ伯ジョヴァンニでした。二人は出会ってわずか10日後の1493年6月12日に結婚しました。
しかし、歴史は歪んだ道を辿ります。1494年はイタリアにとって不吉な年でした。フランス王シャルル8世の侵攻により、イタリア半島は戦場となり、ヨーロッパ列強の狙いとされました。ローマにおけるスフォルツァ家の力は衰退し、ジョヴァンニとの結婚はもはや有利な取引ではありませんでした。1497年、教皇の使者たちは結婚の解消を宣言しました。プライドを傷つけられたジョヴァンニは、ルクレツィア・ボルジアが父と兄の愛人であると告発して侮辱に反抗しました。しかし、ジョヴァンニ・スフォルツァは結局降伏せざるを得ませんでした。
ルクレツィアの兄、チェーザレ・ボルジア
その間、アレクサンデル6世とチェーザレは婚姻の申し出を検討していました。
選ばれた候補は、ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナの非嫡出子アルフォンソでした。1498年7月に結婚式が執り行われ、二人の若者(ともに20歳未満)は互いに気に入り、結婚は幸先の良いスタートを切りました。数ヶ月後、ルクレツィアは妊娠し、美しく、陽気で、情熱的な夫の幸せな妻でした。

しかし数年後、ボルジア家の同盟関係は再び変わりました。チェーザレは父の承認を得て、アラゴン家と対立し、ナポリ王国の征服に関心を持つフランス君主国と同盟を結びました。ルクレツィアとアルフォンソの結婚は、今や家族にとって問題となっていました。1500年、ルクレツィアは息子ロドリゴを出産しましたが、その直後に夫はチェーザレの刺客によって暗殺されました。ルクレツィアは父と兄に激怒したものの、彼らとの関係を断ち切ることはありませんでした。
アレッサンドロ6世は最終的に娘に対し、フェラーラ公エルコレ1世の長男であるアルフォンソ・デステとの結婚を強制しました。エステ家宮廷で、ルクレツィアは教皇の非嫡出子という出自、二度の破綻した結婚、そして不当に汚名を着せられた過去のすべてを忘れさせました。彼女の美貌と知性により、新しい家族からもフェラーラの人々からも慕われました。彼女は有能な政治家、そして抜け目のない外交官としての名声を確立しました。

1503年、アレッサンドロ6世が死去し、ボルジア家の宿敵であるユリウス2世が教皇に選出されました。ルクレツィアはフェラーラで夫のそばにとどまり、多くの子供たちをもうけました。その中には後のフェラーラ公となるエルコレや、有名な枢機卿となるイッポーリトもいました。

1507年、ルクレツィアは兄チェーザレの死の知らせを受け、晩年には困窮している人々に身を捧げ、フェラーラに「モンテ・ディ・ピエタ」(慈善質屋)を設立しました。度重なる妊娠(7人の子供がいました)により体を弱らせたルクレツィアは、1519年に39歳の若さでて亡くなりました。
城は、ボルジア・スルピツィ城(castello Borgia Sulpizi)、ベルヴェデーレ城(castello Belvedere)、ヴィラ・ミララーゴ(villa Miralago)とも呼ばれたが、地元ではボルジア城(castello Borgia)の名でずっと通っている。
引用文献:Lucrezia Borgia :Enciclopedia delle donne

次回8月8日は「Sergio Marchionne」です。