ローマへの移住と愛の出会い
フェデリコ・フェッリーニの生涯における極めて重要な転機の一つが、1930年代の終わりに見せたローマへの移住でした。法学を学ぶ目的でリミニを離れた若きフェッリーニでしたが、首都ローマで出会った活気にあふれたクリエイティブな世界は、大学のどの講義室よりも彼を魅了しました。彼は『ラ・ドメニカ・デル・コリエーレ:La Domenica del Corriere』などの新聞や雑誌に寄稿し始め、皮肉と繊細さをもって世界を観察し、描写する才能を磨いていきました。
映画界での躍進と名作の誕生
本当の転機が訪れたのは1945年、ロベルト・ロッセリーニとの出会いでした。フェッリーニは彼と共に、ネオレアリズモの歴史に刻まれることになる『無防備都市:Roma città aperta』や『戦火のかなた:Paisà』といった映画の原案や脚本を手がけ始めます。この時期、フェッリーニはロッセリーニ、アルベルト・ラットゥアーダ、ピエトロ・ジェルミといった巨匠たちの脚本家や助監督として頭角を現し、将来の映画監督としての礎を築きました。
フェッリーニの生涯と作品において、最も重要な瞬間のひとつが1950年の監督デビューです。アルベルト・ラットゥアーダと共同で監督した『寄席の脚光:Luci del varietà』がその第一歩でした。その翌年、彼は初の単独監督作『白い船長:Lo sceicco bianco』を発表します。これは当時のコミック(fumetti)の世界を風刺した見事な作品で、公開当時はすぐに成功を収められなかったものの、彼のアイロニカルで幻想的なスタイルがすでに色濃く現れていました。
1953年、リミニでの青春時代の思い出から着想を得た『青春群像:I vitelloni』で大きなブレイクを果たします。この作品は、若者たちの持つ普遍的な焦燥感のシンボルとなり、スタンリー・キューブリックのような映画監督たちからも絶賛されました。
続く『道:La strada』(1954年)は、詩的かつ劇的な傑作であり、フェッリーニと妻のジュリエッタ・マシーナの名を世界に轟かせ、アカデミー賞をもたらしました。
『崖:Il bidone』(1955年)という試作を経て、再び成功を収めた『カビリアの夜:Le notti di Cabiria』(1957年)では、か弱くも尊厳に満ちた女性の強烈なポートレートを描き、二度目のアカデミー外国語映画賞を受賞しました。
『甘い生活:La dolce vita』(1960年)において、フェッリーニは戦後のイタリア社会の忘れがたい姿を描き出し、近代映画の金字塔を打ち立てました。その国際的な名声は、映画監督の創造性の危機を見つめた『8½:Otto e mezzo』(1963年)や、魔法と夢、そして内省に満ちた自身初のカラー作品『魂のジュリエッタ:Giulietta degli spiriti』(1965年)によって不動のものとなります。