【第26話】トスカーナ州出身の著名人:その2 ジョット・ディ・ボンドーネ (Giotto di Bondone)
ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)は、単にジョットとして知られ、
1267年頃にフィレンツェ県コッレ・ディ・ヴェスピニャーノで生まれ、
1337年にフィレンツェで亡くなりました。
彼はゴシック期で最も偉大なイタリアの画家と見なされており、
その作品は後の世紀の芸術家にも決定的な影響を与えました。
ジョットは絵画の、ダンテは文学の基礎を築いたと言っても過言ではありません。しかも、「至高の詩人」ダンテが1265年生まれであることから、二人は実質的に同年代です。
彼らは二人とも、イタリアで初めて「国民的」と定義できる言語を創り出しました。実際、ジョットは13世紀末から14世紀初頭にかけて生き、もはや中世の面影がほとんど、あるいは全くない歴史的な時期に活躍しました。
彼はルネッサンスの扉を開いた人物なのです。
彼は主に画家でしたが、建築家でもあり、
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼の建設計画の作者であり、現場監督も務めました。
この鐘楼は1334年から、彼の死の年である1337年の間に建てられました。
ジョットの生涯に関する情報は乏しいのですが、確かなのは、ジョットの師がチマブーエであったことです。彫刻家のロレンツォ・ギベルティは、ある日チマブーエがフィレンツェ近郊を散歩していたとき、少年が石に羊を描いているのを見たと語っています。その羊があまりにも正確に描かれていたため、チマブーエは感銘を受け、その少年を自分の工房へ連れて行き、絵を教えることに決めました。このエピソードはおそらく伝説と思われますが、ジョットがチマブーエの工房で驚異的な才能を発揮し、数年のうちに師から自立しただけでなく、その技量で師を凌駕したのは事実です。
彼は、より現実に忠実な表現を旗印に、イタリア絵画を深く刷新しました。色彩の巧妙な使用により、身体に立体感(ボリューム)を与えました。直感的な遠近法により、空間の奥行きを示唆しました。身振りや顔の表情への注意を通じて、登場人物の心理を伝えました。
ジョットはアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂上堂で一連のフレスコ画を制作しました。28の区画で、だまし絵のロッジアの中に、聖人の生涯を若き日から死に至るまで描いています。現実の生活への関心は、登場人物の描写や環境の描写に明らかであり、そこには実際に存在する建物が描かれています。また、登場人物の衣服も当時のものであり、当時の信者が教会に入ったときに、描かれた観客のように、その場面に感情移入できるように意図されていました。
ジョットはパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂で、もう一つのフレスコ画の連作を制作しました。
壁沿いには、聖母とキリストの物語の場面が、そして正面の裏壁には最後の審判が描かれています。最も有名な場面の一つは「キリストの哀悼」であり、そこにはジョットの表現言語のすべての特徴が見て取れます。
キリストの哀悼
引用文献:Giotto di Bondone vita e opere riassunto facile
次回11月18日は「Simone Martini」です。