【第21話】マルケ州出身の著名人:その3 ドナート・ブラマンテ(Donato Bramante)
Donato Bramante (1444 –1514)
ブラマンテはウルビーノ県フェルミニャーノで生まれました。
彼の幼少期や初期の教育については、残念ながらほとんどわかっていません
彼の歴史が記録され始めるのは1476年からです。彼はウルビーノでキャリアをスタートさせ、フラ・カルネヴァーレに師事し、その後ピエロ・デッラ・フランチェスカの弟子となります。
この頃、ウルビーノ公国は非常に活気があり教養の高い場所でした。イタリアにおける最も権威ある人文主義の中心地の一つと見なされており、ブラマンテはペルジーノ、ピントゥリッキオ、ジョヴァンニ・サンティなど、当時の多くの芸術家と出会う機会がありました。
ブラマンテはイタリア各地を旅し、特にロンバルディア州でその才能を最大限に発揮しました。1477年にはベルガモでポデスタ宮殿のファサードにフレスコ画を描き、1478年にはミラノに到着しました。彼の最初の仕事は、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのポルタ・ティチネーゼ宮殿の修復でした。この地で彼は画家としての活動も開始し、多くの作品を残しました。
ミラノ時代は芸術的に非常に活発な時期で、彼は文学への情熱も追求しました。彼は音楽家や詩人としても評価されていました。25篇のソネットを含む彼の詩集が現存しており、その半分以上は愛をテーマにしたものです。
1482年、彼は天才レオナルド・ダ・ヴィンチと重要な友情を築きました。二人はスフォルツァ城やサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の建設に協力しました。
彼はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の後陣(トリブーナ)という重要な仕事を引き受け、さらに旧聖具室と小回廊の設計も手がけました。
1490年、彼はミラノに定住し、ほぼ独占的に枢機卿アスカニオ・スフォルツァやルドヴィーコ・イル・モーロのために建築家としての活動を行いました。ルドヴィーコ・イル・モーロからは、サンタンブロージョ大聖堂の中庭を含む、非常に権威ある仕事を任されました。
⇐ミラノ最古の教会
「サンタンブロージョ大聖堂」
【ローマでの活動とサン・ピエトロ大聖堂】
この頃、ミラノはフランス軍に占領され、スフォルツァ家の権力は失墜し、多くの芸術家が街を離れることを決意しました。1499年、ブラマンテもローマへ向かいました。ここで彼は長年の友人レオナルドと離れ離れになりましたが、フラ・ジョコンド、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、そして特にラファエロやミケランジェロといった非常に重要な建築家と出会い、彼らから多くを学びました。
※「サン・ピエトロ大聖堂」の礎が築かれたのは324年、キリスト教を公認した「コンスタンティヌス帝」の命によって「聖ペトロ」の墓の上に建設された聖堂が元になっています。最初に(324年~329年に)この地に築かれた聖堂は老巧化したため、1506年、教皇ユリウス2世によって再建が始まり、建設工事は1世紀以上の長期にわたり、設計や監修には、ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなど、時代の寵児と言われる天才芸術家が10人以上も携わりました.
1506年、ブラマンテはユリウス2世によって教皇庁の建築家に任命され、古代コンスタンティヌス朝のサン・ピエトロ大聖堂を再建することになりました。しかし、紙の上の計画から実際の建設へと移行するにつれて、大きな問題が生じました。ブラマンテは古代大聖堂の後陣と翼廊を解体しましたが、これは建築に対して非常に伝統的な見解を持つ聖職者たちの間で大きな論争を引き起こしました。さらに、ユリウス2世が亡くなりました。
ブラマンテは、永遠の都ローマで10年以上にわたる集中的な仕事、おそらく彼の歴史の中で最も重要で代表的な時期を経て、1514年4月11日にローマで亡くなりました。
引用文献:Biografia, storia e vita del Bramante
次回9月28日は「Maria Montessori」です。