1504年から1508年にかけて、ラファエロはフィレンツェで過ごしました。この若い芸術家は、フィレンツェの豊かな芸術的・文化的雰囲気とその街の魅力に惹かれてやってきました。彼はすぐに個人から多くの注文を受け、多くの重要な芸術家と出会いました。フィレンツェでの滞在とレオナルド(1452-1519)やミケランジェロ(1475-1564)との出会いは、彼のスタイルを開花させました。それは、自然の限界を超えた理想的な美の表現と、光り輝く描写を特徴としています。これらの特徴は、一連の「聖母子像」の中でも特に《ひわの聖母;La Madonna del Cardellino》や、数多くの肖像画に現れています。
※《ひわの聖母:La Madonna del Cardellino》
1547年のフィレンツェでは数か月にわたって雨が降り続き、8月のアルノ川の氾濫の後、11月にはコスタ・デイ・マニョーリの丘で地滑りが発生しました。この地滑りにより、ナージ宮殿も崩壊しました。そこには、40年前にロレンツォ・ナージの結婚を記念してラファエロが描いた美しい《聖母子と幼い洗礼者ヨハネ》が保管されていました。この絵画は瓦礫の中から17の破片となって発見されました。2000年から2008年に行われた最近の修復により、その本来の美しさが蘇りました。
1509年、ラファエロは教皇ユリウス2世にローマへ招かれました。このローマ時代は彼の円熟期であり、《アテネの学堂: la Scuola di Atene》を含む「署名の間」や「ヴァチカン宮殿のラファエロの間」のフレスコ画など、不朽の名作を生み出しました。
《システィーナの聖母: Madonna Sistina》ラファエロが描いた最後の聖母マリアであり、ラファエロが自身だけで完成させた最後の絵画です。1754年にドイツのドレスデンに持ち込まれ、その後ドイツの美術界に大きな影響を与え続けました。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られましたが、10年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの3つになっています。