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【第19話】マルケ州出身の著名人:その1 ラッファエッロ・サンツィオ (Raffaello Sanzio )

ラッファエッロ・サンツィオ (Raffaello Sanzio )

ラファエロは、レオナルド、ミケランジェロと共にイタリア・ルネサンスの三大巨匠の一人であり、16世紀を代表する画家兼建築家です。彼は1483年にマルケ地方のウルビーノで生まれ、わずか37歳で1520年にローマで亡くなりました。
画家であった父ジョヴァンニ・デ・サンティから絵画の基礎を学んだと考えられています。しかし、最も有名な師はペルジーノ(1448-1523)で、ラファエロは約4年間彼のもとで修行しました。

1504年から1508年にかけて、ラファエロはフィレンツェで過ごしました。この若い芸術家は、フィレンツェの豊かな芸術的・文化的雰囲気とその街の魅力に惹かれてやってきました。彼はすぐに個人から多くの注文を受け、多くの重要な芸術家と出会いました。フィレンツェでの滞在とレオナルド(1452-1519)やミケランジェロ(1475-1564)との出会いは、彼のスタイルを開花させました。それは、自然の限界を超えた理想的な美の表現と、光り輝く描写を特徴としています。これらの特徴は、一連の「聖母子像」の中でも特に《ひわの聖母;La Madonna del Cardellino》や、数多くの肖像画に現れています。



※《ひわの聖母:La Madonna del Cardellino》
1547年のフィレンツェでは数か月にわたって雨が降り続き、8月のアルノ川の氾濫の後、11月にはコスタ・デイ・マニョーリの丘で地滑りが発生しました。この地滑りにより、ナージ宮殿も崩壊しました。そこには、40年前にロレンツォ・ナージの結婚を記念してラファエロが描いた美しい《聖母子と幼い洗礼者ヨハネ》が保管されていました。この絵画は瓦礫の中から17の破片となって発見されました。2000年から2008年に行われた最近の修復により、その本来の美しさが蘇りました。
1509年、ラファエロは教皇ユリウス2世にローマへ招かれました。このローマ時代は彼の円熟期であり、《アテネの学堂: la Scuola di Atene》を含む「署名の間」や「ヴァチカン宮殿のラファエロの間」のフレスコ画など、不朽の名作を生み出しました。
《システィーナの聖母: Madonna Sistina》ラファエロが描いた最後の聖母マリアであり、ラファエロが自身だけで完成させた最後の絵画です。1754年にドイツのドレスデンに持ち込まれ、その後ドイツの美術界に大きな影響を与え続けました。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られましたが、10年後にドイツに返還され、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの3つになっています。
サンツィオは主にその絵画で世界的に知られていますが、彼は多才な芸術家であり、その関心は絵画から建築、古代美術の研究にまで及びました。1514年、彼は教皇レオ10世により「サン・ピエトロ大聖堂の建築家」に任命されました。これは、亡くなる前にブラマンテがヴァチカン宮殿の新しい記念碑的な建築物の建設において、ラファエロを後継者として指名したことによるものです。このため、ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂の建設工事も引き継ぎ、ブラマンテの元々の計画にいくつかの修正を加え、亡くなるまで工事の責任者を務めました。サンツィオはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ礼拝堂、ヤコポ・ダ・ブレシア宮殿、アルベリーニ宮殿などを設計しました。
作者:ラファエロとジュリオ・ロマーノ
《キリストの変容:Trasfigurazione》はウルビーノ出身のこの芸術家による、詩的かつ芸術的な集大成を意味する作品でしたが、彼は完成させることなく1520年4月にローマで亡くなりました。
彼はパンテオンに埋葬され、ピエトロ・ベンボは彼に以下の墓碑銘を捧げました。
「ここにラファエロは眠る。彼が生きている間、母なる自然は彼に超えられることを恐れ、彼が死んだとき、彼と共に死ぬことを恐れた。」
『システィーナの聖母』のマリアの足下に描かれている翼を持った二人の天使は、この絵画自体の評価とは無関係に非常に有名なイメージになっています。1913年にアメリカ人演劇評論家、作家グスタフ・コビー(en:Gustav Kobbé)が「『システィーナの聖母』の画面下部に、祭壇にもたれかかるように描かれている天使以上に有名な天使は存在しない」と述べています。



引用文献:Raffaello Sanzio, maestro dell’arte italiana dalla vita breve
次回9月8日は「Gioachino Rossini」です。