【第25話】トスカーナ州出身の著名人:その1 ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)
ダンテ・アリギエーリ:Dante Alighieri(1265年-1321年)は、
イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。
政界を追放され放浪生活を送りながらも文筆活動を続けた人物であり、
至高の詩人であるとともに "イタリア語の父" として知られています。
ダンテ・アリギエーリは、フィレンツェで小貴族の家庭に生まれました。生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられました。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形です。
ダンテは修道院が経営するラテン語学校、後にボローニャ大学に入学し、哲学や法律学、修辞学、天文学などを研究しました。カヴァルカンティとボローニャ大学で知り合い、カヴァルカンティにより詩作する意欲をもらったとされています。
俗語による作品:
※「俗語:volgare」とは、イタリア語の祖形にあたるトスカーナ方言を中心とした中世イタリアの口語のことです。
ダンテを代表する最初の詩文作品、『新生:La Vita Nuova』(1293–1294年)は、ダンテの俗語による最初の体系的な作品です。 これは、詩と散文の部分が混在した作品で、その内容は現実の出来事、つまりダンテのベアトリーチェへの愛、最初の出会いから彼女の死までの理想化された物語です。ベアトリーチェは、神へ昇るための手段である天使のような存在として描かれています。『新生』は、ベアトリーチェへの愛を通じて起こる、詩人の精神的な再生の物語です。
⇐ダンテがベアトリーチェと出会ったポンテ・サンタ・トリニタ(ヘンリー・ホリデー)
『新生:La Vita Nuova』によれば、1274年、春祭りの日にダンテは同い年のベアトリーチェ・ポルティナーリ(Beatrice Portinari:1266-1290)に出会い、魂を奪われるかのような感動を覚えたと言っています。この時、ダンテは9歳でした。それは束の間の出会いで、記憶の中に埋もれていましたが、9年後、18歳になったとき、二人はサンタ・トリニタ橋のたもとで再会しました。二人は目を合わせ、彼女はダンテに挨拶をし、ダンテの心を永遠に掴みました。この瞬間から、ベアトリーチェは偉大な詩人のミューズとなりました。
1285年にダンテはジェンマ・ディ・マネット・ドナーティと結婚し、3人の子供をもうけました。
ベアトリーチェは19歳で銀行家に嫁ぎ、1290年に24歳で病死してしまいます。彼女の死を知ったダンテは古典を読み耽って心の痛手を癒そうとしました。そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて『新生』を著したのです。その後、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描きました。
『神曲:Divina Commedia』(1306年–1321年)』は、イタリア文学における最も偉大な叙事詩と見なされています。 これは、ダンテがキリスト教の冥界の三つの王国、すなわち地獄(Inferno))、煉獄(Purgatorio)、天国(Paradiso)を旅する想像上の旅の物語です。100の歌(それぞれ詩編、地獄、煉獄、天国が33歌ずつ、そして作品全体への序章となる1歌)から三行韻詩(terzine)で構成されています。『神曲』は、神の裁きによって罰せられたり、報われたりしたダンテの時代の有名人の例を通して、道を見失った人々に「正しい道」を示すことを目的としています。
⇐ドメニコ・ディ・ミケリーノによる1465年の絵画
ダンテの政治活動は1290年頃に始まり、1295年には医師・薬剤師会の会員として活動を続け、その後、百人評議会、人民大将特別評議会にも参加し、最終的に修道院長に任命されました。ダンテはまた、外交官としても活躍し、イタリアの複数の都市で大使を務めました。
当時、フィレンツェは政治的にグエルフィ党とギベリーニ党という二つの対立する党閥に分かれており、ダンテはグエルフィ党の支持者でした。後にグエルフィ党は白派と黒派に分裂し、ダンテは(穏健ではあったものの)白派に味方しました。1301年、ダンテが教皇ボニファーチョ8世への大使としての任務に関連した政治的な理由でローマに滞在していた際、黒派が権力を掌握し、ダンテを汚職の罪で告発し、1302年3月に欠席裁判で死刑を宣告しました。ダンテは有罪判決を受けて、残りの人生を亡命生活の中で過ごし、熱心な知的活動に専念しました。
彼は晩年をラヴェンナで過ごし、地元の名家に客人として招かれ、政治的な地位も歴任しました。外交旅行中にマラリアに感染し、それが死因となりました。1321年9月13日から14日にかけての夜、ラヴェンナで56歳という若さで亡くなりました。
イタリアの2ユーロ硬貨のダンテ
引用文献:SOCIETA' DANTE ALIGHIERI - COMITATO DI ATENE
次回11月8日は「Giotto di Bondone」です。