2025 年 9 月 8 日公開
【第20話】マルケ州出身の著名人:その2 ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)
ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)
※「Gioachi no」 は、彼の出生証明書に記載されている正式な名前です。「Gioacchi no」は、イタリア語の一般的な綴りとして広く使われており、こちらも正式なものと見なされています。この表記の違いは、彼の存命中から存在していました。どちらの表記も彼の名前として受け入れられており、現代でもどちらも使用されています。
ジョアキーノ・ロッシーニは、1792年2月29日にペーザロで生まれました。父親のジュゼッペは Vivazza (ヴィヴァッツァ:活力にあふれた) という愛称で知られるホルンとトランペット奏者、母親のアンナ・グイダリーニは歌手でした。ロッシーニは幼い頃から両親の巡業に同行しました。
ロッシーニは母親アンナ・グイダリーニへの深い愛情と崇拝の念を抱いていました。彼は母親を次のように描写しています。
「すらりとして均整がとれており、肌はつややかで抜けるほど白く、歯並びは美しく、黒髪はふさふさとして、カールしていた。いつも陽気で機嫌がよく、口元には永遠の微笑みを、顔には天使のような甘い表情を浮かべていた。」
⇐ アンナ・グイダリーニ:Anna Guidarini (1771–1827)
彼は若い頃から並外れた音楽の才能を示し、1806年にボローニャの音楽学校に入学し、チェロとピアノを学びました。わずか14歳で、すでに劇場の公演で報酬を得ていました。
ボローニャのフィルハーモニー・アカデミーに「歌手」として所属し、後に妻となる歌手イザベラ・コルブランと出会います。
⇐ イザベラ・コルブラン:Isabella Colbran (1784ー1845年)
彼のキャリアは急速に発展し、1810年には18歳で初のオペラ・ブッファ『結婚手形:La cambiale di matrimonio』 を作曲しました。1815年には、23歳でナポリのサン・カルロ劇場の監督に就任し、年間1作以上のオペラを作曲する契約を結びました。この時期に作曲された最も有名な作品には、オペラ史上最も有名なオペラ・ブッファとされる1816年の『セビリアの理髪師:』 、『チェネレントラ:』 、『セミラーミデ:Semiramide』 などがあります。1810年から1823年のイタリア滞在中に、彼は30以上のオペラを作曲しました。
イタリアを離れた後、ロッシーニはパリに、その後ロンドンに行き、再びパリに戻りました。1826年、パリの聴衆は彼の作品に熱狂し、王室大臣はロッシーニにパリでの今後の作品を保証する魅力的な契約を提案しました。しかし、彼は1829年に初演された傑作『ウィリアム・テル: Guglielmo Tell』 を最後に、オペラ作曲家としてのキャリアを終えました。
その後、1835年には『音楽の夜会:Soirées Musicales』 を出版し、他の短い作品も作曲しました。
サロンに集う芸術家たち
前列 後ろ姿 マリー・ダグー夫人
真ん中の列左から デュマ ジョルジュ・サンド
ピアノを演奏しているのはリスト
後列 左から ヴィクトル・ユーゴー パガニーニ ロッシーニ
ピアノの上の胸像 ベートーベン
1832年から、彼は深刻な神経衰弱に苦しみ始めました。その後54歳で、文豪・バルザックの愛人で高級娼婦オランプ・ペリシエと恋に落ちて結婚、オランプは淋病、うつ病、直腸癌というロッシーニを支えて暮らします。1846年に最初の妻の死後、彼女と再婚しました。
⇐ オランプ・ペリシエ:Olympe Pélissier (1799-1878年)
1859年、彼はパリのパッシーに別荘を建て、そこで妻とパリでの生活を交互に過ごしました。1868年、彼はこの地で亡くなりました。彼の墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあり、他の偉大なイタリア人たちと共に埋葬されています。
彼の輝かしい音楽キャリアに加え、ロッシーニは料理への情熱でも知られていました。この情熱が、彼をフランス宮廷での名誉ある役割へと導き、彼の料理の腕前は音楽の才能と同じくらい高く評価されました。
ロッシーニの言葉:
「魂にとっての愛がそうであるように、食欲は体にとっての愛である。胃は我々の情熱という大オーケストラを指揮するマエストロだ。食べること、愛すること、歌うこと、消化すること、これらは人生という喜劇オペラの4つの幕だ。」