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【第11話】カンパーニャ州出身の著名人:その2
エンリーコ・カルーソ (Enrico Caruso)

第11話:カンパーニァ州出身の著名人: その2

史上最も偉大なテノール歌手、イタリア人エンリコ・カルーソ(1873~1921)
【第10話】で取り上げた不朽のコメディアン「トト」(ナポリ生まれ、1898年2月15日)と並んで、同様に伝説的なエンリーコ・カルーソを忘れることはできません。彼は1873年2月25日にナポリで生まれ、クラシック音楽の歴史において最も偉大なテノールの一人とされています。彼の誕生日はトトの誕生日と数日違いであり、二人の芸術家はナポリのドガネッラ地区、ヴィア・ヌオーヴァ・デル・カンポにあるサンタ・マリア・デル・ピアント墓地に、僅か数メートル離れた場所に埋葬されています。
エンリコ・カルーソはナポリの人口の多いサン・カルロ・アッラレーナ地区で、貧しい家庭に生まれました。父マルチェッリーノ・カルーソは金属加工の労働者で、母アンナ・バルディーニは清掃婦でした。普通学校に通った後、10歳で父と共に鋳物工場で働きましたが、母の勧めで夜間学校に入学し、そこで絵の才能があることに気づき、働いていた工場の噴水の設計を始めました。その間、彼の声とその才能が評判となり、結婚式や葬儀の際に教会の聖歌隊で歌い、いくつかの演劇にも参加するようになりました。
1896年、歌の師であるヴィンチェンツォ・ロンバルディとの出会いが決定的でした。ロンバルディは彼を鍛え上げ、並外れたテノール歌手に育てました。ロンバルディは夏のシーズンにカルーソをリヴォルノに連れて行きました。こうしてカルーソのキャリアは始まり、当時の最も権威ある劇場で次々と勝利を収めていきました。

ここでカルーソは、既婚で子供を持つソプラノ歌手、アダ・ボッティ・ジャケッティと出会いました。二人の関係は11年間続き、その間に二人の子供、ロドルフォ(1898年–1951年)とエンリコ・ジュニア(1904年–1987年)が生まれました。ところがアダは二人の運転手であるチェーザレ・ロマーティと駆け落ちし、カルーソの元を去りました。

※「人生は私に多くの苦しみをもたらす。何も経験したことのない者は歌うことができない。」(エンリコ・カルーソー)
1800年代末から1900年代初頭にかけての何百万人もの同胞と同様に、エンリコも移民となりました。彼は成功した移民として、その声はアメリカを魅了しました。また、他の歌手たちが新しい技術に懐疑的だったのに対し、カルーソはレコードの芸術的および経済的な可能性を直感していました。

1909年、エンリコ・カルーソは22曲のナポリ民謡を集めたアルバムをリリースしました。その中には、ジャケッティとの破局後の彼の心境を反映した「Core'ngrato(つれない心):カタリ・カタリ 」も含まれています。
イギリスのレコード会社、グラモフォン&タイプライター社のために録音した10枚のオペラアリアのレコードは、彼を世界中に知らしめ、出演契約とギャラを増やしました。ルッジェーロ・レオンカヴァッロのオペラ『道化師』からのアリア「衣装をつけろ:Vesti la giubba」は、アメリカのビクターレーベルから発売され、100万枚の売上を突破した最初のレコードとなりました。「イタリアの声」は世界中で求められ、称賛されました。
1909年、彼は肥厚性喉頭炎のためミラノで手術を受けました。その手術は一時的には彼のキャリアに影響を与えず、世界ツアーを続けることができ、戦時中には慈善公演も行いました。彼は非常に寛大で、困っている同胞を助け、戦争中は兵士たちのためにコンサートを開きました
1918年8月28日、彼は良家の米国人女性ドロシー・ベンジャミン(1893年–1955年)と結婚し、娘グロリア(1919年–1999年)をもうけました。
北米での長期ツアーの後、1920年にテノールの健康状態は悪化し始めました。クリスマスの日になって初めて、耐えがたい痛みが、感染性胸膜炎と診断されました。ソレントからナポリへ、そしてローマへ向かう途中で、カルーソは1921年8月2日、48歳で亡くなりました。その時、妻、息子のロドルフォ、弟のジョヴァンニ、そして彼を愛するすべての人々が付き添っていました。
この画像は、ナポリのサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会で行われたエンリコ・カルーソ(1873-1921)の葬儀の様子です。葬列は教会へ向かう途中に王宮の前を通っています。
カルーソの生涯は1951年のハリウッド映画『歌劇王カルーソ』(マリオ・ランツァ主演)で映画化されました。

引用文献:Personaggio storico「Enrico Caruso」
次回6月18日は「Sophia Loren」です。