2026 年 5 月 18 日公開
【第44話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その4 ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)
ミケランジェロ・アントニオーニ:Michelangelo Antonioni(1912ー2007年)
イタリアの映画監督。1912年9月29日、フェラーラ生まれ。
彼は、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭の
すべてで最高賞を受賞した唯一の監督です。
現代映画を代表する最も重要な人物の一人であり、ルキノ・ヴィスコンティが『郵便配達は二度ベルを鳴らす:Ossessione』を製作したのと同じポー川流域で、ドキュメンタリー『ポー川の人々:Gente del Po』(1943年)を制作し、ネオレアリズモの先駆けとなりました。
戦後、エッセイスト、ドキュメンタリー作家、脚本家としての真摯な活動を経て、長編デビュー作『愛の記録:Cronaca d'un amore』(1950年)を発表。その簡素でパーソナルなスタイルは、イタリア映画の物語全体を反自然主義的な手法で革命的に変化させました。
「不条理と疎外」の探求
これらのテーマとスタイルは、初期の作品群(『敗北者:I vinti』1952年、『情熱の嵐:La signora senza camelie』1953年、『女ともだち:Le amiche』1955年)に反映されました。
その後、『さすらい:Il grido』(1957年ロカルノ国際映画祭金豹賞)の制作中、監督はモニカ・ヴィッティと出会い、公私ともに深いパートナーシップを築き、いわゆる「実存の四部作」を共に制作しました。
愛の冒険:L'avventura (1960年):カンヌ国際映画祭 審査員賞
夜:La notte (1961年):ベルリン国際映画祭 金熊賞
太陽はひとりぼっち:L'eclisse (1962年):カンヌ国際映画祭 審査員賞
赤い砂漠:Deserto rosso (1964年):ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞
これらの作品でアントニオーニは、カップルの危機をきっかけに、60年代社会における広範な「疎外」の問題に取り組み、当時の偉大な作家たちのテーマと直接結びつくような、人間の条件に対する瞑想へと辿り着きました。
『赤い砂漠:Deserto rosso』(1964年)制作中のアントニオーニと
モニカ・ヴィッティ。
上記の「実存の四部作」を共に制作した後、
監督が『欲望』の準備のためにロンドンへ渡るのと時期を同じくして、
二人は破局しました。
国際的な活動と「危機の三部作」
続く10年間、アントニオーニはそれまで活動の場としていたイタリアという枠組みから距離を置き、新たな空間へと文化的地平を広げ、国外で制作された3つの傑作を通じて、それぞれの「危機の状態」を描き出しました。
欲望(Blow-up )(1967年):観念的な視点から見た「思考の危機」。
砂丘(Zabriskie Point )(1970年):社会学的な視点。
さすらいの二人(Professione: reporter) (1975年):道徳的・実存的な視点。行動の危機、すなわち「行うことの現実」がもはや「真実」とは一致しなくなった状態。
この三部作は、アントニオーニを最も個性的で現代的な映画作家たらしめている表現力、詩情、スタイルを裏付けるものとなりました。彼は単に新しい言語や技術の創始者であるだけでなく、「新しい劇作術:ドラマツルギー」の創始者でもあったのです。
⇐ さすらいの二人(Professione:reporter)(1975年)
1986年、約14年間の交際を経て、監督は40歳年下のドキュメンタリー作家エンリカ・フィコと再婚しました。彼らの絆は、アントニオーニが脳虚血(脳卒中)に見舞われた後の困難な時期にさらに強まり、監督が亡くなるまで続きました。晩年は病によりコミュニケーション能力が著しく制限されましたが、絵画に専念し、いくつかの展覧会を開きました。
2007年7月30日、妻に見守られながら、ローマの自宅にて94歳で死去しました。
【主な功績】
• 1983年:ヴェネツィア国際映画祭 栄誉金獅子賞
• 1995年:アカデミー名誉賞
引用文献 :ANTONIONI, Michelangelo - Enciclopedia
次回2026年5月28日は「Enzo Biagi」です。
2026 年 5 月 8 日公開
【第43話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その3 エンツォ・フェッラーリ (Enzo Ferrari)
エンツォ・フェッラーリ Enzo Ferrari (1898-1988)
エンツォ・フェッラーリは、1898年2月18日の凍てつくような朝、モデナ郊外で生まれました。両親はともにカルピの出身で、控えめな暮らしを送っていました。彼らは、父がイタリア国鉄向けの橋や屋根を製造していた金属加工工場の上の家に住んでいました。エンツォは幸せな幼少期を過ごし、本や文学をこよなく愛した兄のアルベルト(愛称ディーノ)と部屋や日々を共にしました。
しかし、1916年に父親が肺炎で急死し、家庭の平穏は打ち砕かれます。さらに同年、兄のディーノも兵役中に重い感染症にかかり、命を落としました。この時からエンツォは、孤独と向き合いながら、たった一人で生きていくことを学んだのです。
キャリアの始まりとアルファ・ロメオ
1918年の冬、彼は成功を夢見てトリノへと向かいました。そこで、小型トラックを乗用車のシャシーに改造する工場でささやかな職を得ることができました。その後、ミラノのCMN(Costruzioni Meccaniche Nazionali)でテストドライバーとしてのキャリアを積み、やがてレーシングドライバーへと転身します。レースデビューは1919年のパルマ=ポッジオ・ディ・ベルチェートのヒルクライムレースでした。翌年にはアルファ・ロメオとの20年に及ぶ協力関係が始まり、最初は公式ドライバーとして、後にレース部門の責任者として活躍しました。
1929年、すでにスポーツの功績により「カヴァリエーレ(騎士)」や「コメンダトーレ(騎士団長)」の称号を授与されていたエンツォは、モデナに「スクーデリア・フェラーリ」を設立しました。これは会員がレースに参加するためのスポーツ協会でしたが、すぐにアルファ・ロメオの支部となりました。
そのシンボルこそが、あの「跳ね馬(カヴァリーノ・ランパンテ)」です。
エンツォ・フェッラーリは著書『わが残酷なる喜び(Le mie gioie terribili)』 の中でこう語っています。
「1923年にサヴィオ・サーキットで初優勝した際、英雄フランチェスコ・バラッカの父であるエンリコ・バラッカ伯爵と知り合いました。その出会いが縁で、後に母親のパオリーナ伯爵夫人ともお会いしました。ある日、彼女が私にこう言ったのです。『フェラーリさん、私の息子の跳ね馬をあなたの車につけなさい。きっと幸運をもたらしてくれますよ』。私は今でも、ご両親がその紋章を私に託してくれた、献辞入りのバラッカの写真を大切に持っています。馬は当時も今も黒のままですが、私はそこにモデナの色であるカナリア色の背景を加えました」
苦難と栄光
1932年、父親になったばかりのフェッラーリはドライバーを引退し、その数年後にはアルファ・ロメオとの提携も解消しました。しかし、新たな冒険が始まろうとしていました。1939年にモデナで設立され、1943年にマラネッロへ移転した「オート・アヴィオ・コストルツィオーニ(フェッラーリの前身)」です。
戦争による避けられない困難を乗り越え、跳ね馬のメーカーはついに「夢の赤い車」を造る準備を整えました。フェッラーリはすぐにF1を含むレース界でデビューを飾り、勝利を重ね、その車両は革新と贅沢な職人技の代名詞となりました。
Auto Avio Costruzioni Tipo 815
1956年は、フェッラーリにとって最悪の年となりました。人生の心の支えであった息子のディーノを亡くしたのです。翌年も悲劇は続きました。ミッレ・ミリアで2人のドライバーと9人の観客が死亡する事故が起き、彼は欠陥タイヤを装着したとして告発されました。裁判の結果、無罪放免となりましたが、これは彼にとって大きな打撃となりました。その心の傷は何年も癒えることなく、1977年、自ら創設した会社の職を辞し、愛するモデナで引退生活を送る決意をしました。
晩年
控えめで内向的な人物であったエンツォ・フェッラーリは、その功績により、ボローニャ大学の名誉工学博士号、モデナ大学の名誉物理学博士号、大十字騎士章(カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ)、コロンブス賞、社会科学分野のハマーショルド賞など、数多くの重要な称号や賞を授与されました。
彼が携わった最後のプロジェクトは、マラネッロのフェッラーリ・ギャラリー(現ムゼオ・フェッラーリ)の設立でしたが、残念ながらその完成を見ることはできませんでした。エンツォ・フェッラーリは、開館の1年半前である1988年8月14日、90歳でこの世を去りました。
引用文献 :LA STORIA DI ENZO FERRARI
次回2026年5月18日は「Michelangelo Antonioni」です。
2026 年 4 月 28 日公開
【第42話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その2 アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)
Arturo Toscanini
(1867年、パルマのボルゴ・ロドルフォ・タンツィ、1957年ニューヨーク近郊のリバーデイル。)
アルトゥーロ・トスカニーニは、父クラウディオと母パオラ・モンターニの間に生まれました。
仕立屋であり合唱団員でもあった父は熱烈なガリバルディ支持者(赤シャツ隊)であり、
そのため幼いトスカニーニは幼少期の大部分を母方の祖父母のもとで過ごしました。
11歳の時にはすでに音楽を熱愛しており、パルマ音楽院のカリーニ教授のチェロ科に特待生(学費免除)として入学します。
1884年には『ローエングリン』の演奏に加わり、学校の仲間からはすでに「天才」と呼ばれていました(ただし、その鋭すぎる批判精神から「Forbicione :フォルビチョーネ(大鋏)」ともあだ名されていました)。
1885年に音楽院を最優秀の成績で卒業。音楽院の図書館には、今も彼のオーケストラ用スコア3点と、歌とピアノのためのロマンス1点が保管されています。
卒業後、彼はチェリストとして巡業オペラ団に加わります。ブラジル公演の最中、指揮者の代役として急遽、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』を指揮することになりました。楽譜をすべて暗記していたトスカニーニは、見事な演奏を披露し観客を魅了します。この大成功を受け、彼は残りのシーズンも指揮者として採用され、わずか19歳にしてその才能と実力を世に知らしめました。
イタリアでのデビューは1886年11月、トリノでのことでした。母国において彼は数多くの指揮を執り、ルッジェーロ・レオンカヴァッロの『道化師』(1892年)やジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』(1896年)の世界初演、さらにリヒャルト・ワーグナーの『神々の黄昏』のイタリア初演(1895年)などを手がけました。
1896年、トスカニーニはミラノ・スカラ座で初めて指揮を執り、1898年にスカラ座の首席指揮者に選ばれたことで、その名声はさらに高まりました。
1987年にカルラ・デ・マルティーニと結婚。
夫妻の間には、長男ワルター、次男ジョルジョ(1906年にジフテリアで早世)、
長女ウォーリー、次女ワンダの4人の子供が生まれました。
ワンダは、父の協力者でもあったピアニストのウラディミール・ホロヴィッツと結婚しました。
Vladimir Horowitz と Wanda Toscanin
1908年、トスカニーニはスカラ座を去り、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の指揮者へと転身します。トスカニーニは、ヨーロッパで台頭するファシズムに猛烈に反対しました。1931年、イタリアでファシスト党の党歌『ジョヴィネッツァ』の演奏を拒否したために、平手打ちを食らうという事件が起きました。彼はドイツのバイロイト・ワーグナー音楽祭で、ドイツ人以外で初めて指揮を執った人物でしたが、1933年にはナチス政権への抗議として、この音楽祭への出席を拒否しました。こうしたエピソードの数々は、マエストロ・トスカニーニの信念の強さを物語っています。
1936年、トスカニーニはパレスチナへと渡ります。ポーランド人音楽家ブニスラフ・フーベルマンと協力し、ヨーロッパから逃れる手助けをしたユダヤ人音楽家たちのオーケストラを指揮するためでした。
1946年5月11日:解放後のスカラ座再建
1943年8月の激しい空爆によって破壊されたスカラ座が、記録的な速さで再建されました。
その再開の日、ミラノの人々は、復興した劇場の美しさに陶酔しながら、ボックス席、平土間、天井桟敷に至るまで、文字通り溢れんばかりに詰めかけました。
マエストロが登場すると、地響きのような歓声が沸き起こりました。拍手と叫び声はますます大きくなります。
指揮台に不動の姿勢で立った79歳のトスカニーニは、めずらしく笑みをこぼすと、すぐさま三色旗(イタリア国旗)の柄がついた指揮棒を上げ、演奏を開始しました。
妻カルラは1951年に死去。
トスカニーニが最後に生演奏の指揮を執ったのは、1954年4月4日のカーネギーホール、
NBC交響楽団とのコンサートでした。
1957年1月16日、アルトゥーロもまた、ニューヨークのリバーデイルにある自宅で89歳の生涯を閉じました。
逸話:
プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演(1926年)に際し、ムッソリーニ臨席のもとで演じることが決められていましたが、ファシスト党政権に反発するトスカニーニは、国歌と扱われていた党歌「青春の歌」の演奏を拒んだのです。このためにムッソリーニは初演に立ち会いませんでした。
未完に終わった「トゥーランドット」をプッチーニの弟子アルファーノが補作しましたが、トスカニーニは補作の直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降り、公演はそこで終了。トスカニーニはオケピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰宅の途につきました。
引用文献 :Arturo Toscanini Parmaitaly.com
次回2026年5月8日は「Enzo Ferrari」で
2026 年 4 月 18 日公開
【第41話】エミリア・ロマーニャ州出身の著名人:その1 ジュセッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)
ジュゼッペ・ヴェルディ(Le Roncole di Busseto, 1813 – Milano, 1901)
ジュゼッペ・ヴェルディは、1813年10月10日、当時オーストリア統治下にあった
パルマ公国の小さな集落、レ・ロンコレ(ブッセート近郊)に生まれました。
父は宿屋と雑貨商を営み、母は紡績女工としても働いていた非常に質素な家庭の出身でした。
若きヴェルディは早くから音楽の才能を発揮します。ブッセートで彼は、裕福な商人アントニオ・バレッツィと出会いました。音楽に造詣の深かったバレッツィは、少年の類まれな素質を見抜き、ブッセート大聖堂のオルガン奏者フェルディナンド・プロヴェージに師事させるための費用を支援し、自宅に彼を住まわせました。
18歳の時、バレッツィの勧めもありヴェルディはミラノへ向かい、音楽院の入学試験を受けますが、資格年齢〈9~14歳)をはるかに越えていたこともあり「不合格」という衝撃的な結果に終わります。この不合格は歴史的な出来事として語り継がれていますが、審査員側の弁明をすれば、当時の彼は作曲家としてではなく「ピアニスト」として考えられていたこともありました。しかしバレッツィは彼の才能を信じ続け、ミラノに留まって個人レッスンを受けるための援助を惜しみませんでした。
⇐ アントニオ・バレッツィ(1787–1867年)
1836年、学業を終えたヴェルディはブッセートの音楽監督の職を得て、バレッツィの娘マルゲリータと結婚し、二人の子供を授かりました。平穏な日々でしたが、彼の夢はスカラ座という大舞台を音楽で成功することでした。
一家でミラノへ移住しますが、そこから人生で最も過酷な時期が始まります。二人の子供と最愛の妻を相次いで亡くし、肝心の音楽活動もなかなか成功しませんでした。
⇐ バレッツィの娘マルゲリータ(1814-40年)
そんなヴェルディの運命を変えたのが、1842年3月9日にミラノ・スカラ座で初演されたオペラ『ナブッコ』でした。この作品の出演者の中には、後に彼と深い絆で結ばれることになる名歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニがいました。『ナブッコ』以降、ヴェルディは次々と作品を発表し、イタリア国民の絶大な支持を獲得していきます。
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ (1815~1897年)
マッフェイ伯爵夫人のサロンでは、外国の支配からイタリアを解放し、ばらばらの国家を一つにまとめようとする文人や知識人、愛国者たちと交流を深めました。1843年にスカラ座で初演された『第一回十字軍のロンバルディア人』は大喝采を浴び、ヴェルディはイタリア・リソルジメント(国家統一運動)の象徴的な音楽家となりました。
1851年から1853年にかけて、彼は現在も最も愛されている3つのオペラ、いわゆる「中期の三部作」(『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』)を作曲しました。その後パリでは、シラーの戯曲を基に人生の虚無感を描いた傑作『ドン・カルロ』(1867年)を、1871年にはカイロで『アイーダ』を初演しました。
晩年と慈善活動
晩年のヴェルディは宗教音楽にも力を注ぎました。その最高傑作が、1874年に発表された『レクイエム(死者のためのミサ曲)』です。これは、彼が深い敬意を抱いていたリソルジメント文学の巨匠、アレッサンドロ・マンゾーニの死を悼んで作曲されたものです。
ヴェルディが最後に取り組んだ大事業は、幸運に恵まれなかった音楽家たちのための「憩いの家(音楽家のための老人ホーム)」の建設でした。ミラノに現存するこの施設は、ヴェルディ作品の著作権収入によって今も運営されています。
⇐ アレッサンドロ・マンゾーニ(1785-1873年)
1901年1月27日、ヴェルディはミラノのホテルでその生涯を閉じました。
本人は「葬儀は簡素に、行列も不要」と遺言していましたが、この偉大な音楽家に最後のお別れを告げるため、
葬列の通り道には数え切れないほどの群衆が詰めかけました。
引用文献 :Giuseppe Verdi: vita, opere riassunto
次回2026年4月28日は「Arturo Toscanini」です。
2026 年 4 月 8 日公開
【第40話】トスカーナ州出身の著名人:その16 ルカ・パチョーリ (Luca Pacioli)
ルカ・パチョーリ(Sansepolcro 1445~1517)
レオナルド・ダ・ヴィンチに数学を教えた「会計学の父」。
フラ・ルカ・バルトロメオ・デ・パチョーリ(またはパチョーロ)は、イタリアの修道士、数学者、そして経済学者でした。パチョーリはイタリア・ルネサンスが生んだ稀代の人物であり、会計学の分野における革命的な業績から「会計学の父」として知られています。
彼は故郷のサンセポルクロで学び、教育の基礎を築いた後、ヴェネツィアで研鑽を積みました。1470年、おそらくサンセポルクロの修道院にてフランシスコ会に入会しました。数学の教師として、ペルージャ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ピサ、ボローニャ、ローマなど各地を精力的に巡りました。
1494年、彼の最も重要な著作の一つである『算術・図形・比及び比例全書(スンマ)』を出版しました。これは複式簿記に関する最初の体系的な解説書とされており、この功績によって彼は「会計学の父」の称号を得ました。この画期的な著作は近代会計学の基礎を築き、商業や経済の世界で広く活用されました。パチョーリが導入した複式簿記のシステムは、会計学に永続的な影響を与え、今日においてもなお、この学問の根本的な要素の一つであり続けています。
パチョーリは経済学や科学の歴史に消えない足跡を残しただけでなく、同時代のもう一人の傑出した思想家、レオナルド・ダ・ヴィンチの教育においても極めて重要な役割を果たしました。この不世出の天才レオナルドとの絆は、ルカ・パチョーリの生涯において最も意義深い章の一つとなりました。1496年、パチョーリはミラノに移り、当時、偉大な芸術家・科学者として頭角を現し始めていたレオナルドの友人であり指導者となりました。
この実りある関係を通じて、パチョーリはこの発明家の数学教師となり、幾何学、遠近法、その他の数学的原理に関する知識を共有しました。これらは、私たちが今日でも称賛してやまないレオナルドの芸術作品や発明の中に活かされることになったのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチがルカ・パチョーリのためにデザインした3つの多面体。アンブロジアーナ図書館に保管されている『神聖比例論』の写本(MS 170 sup.)より。
ルカ・パチョーリの肖像
『ルカ・パチョーリの肖像』(または『二重肖像画』、別名『ルカ・パチョーリと弟子の肖像』)は、カポディモンテ国立美術館に所蔵されている謎めいた絵画です。
その作者については、ルネサンス期の画家ヤコポ・デ・バルバリ、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ、ロレンツォ・ロット、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチなど、諸説あり議論が続いています。
当時50歳前後だったルカ・パチョーリは、集中した、あるいはどこか遠くを見つめるような眼差しで、当時の貴族的な服装に身を包んだ弟子(視線を観客に向けている)に対し、ユークリッド『原論』第13巻の第8命題を実演して見せています。テーブルの上には、1494年にヴェネツィアで出版され、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公爵に献呈された彼の最も有名な著作『算術・図形・比及び比例全書(スンマ)』が置かれています。その周囲には、数学や幾何学の研究・測定に用いられる道具(羽根ペンとそのケース、コンパス、分度器、チョーク、スポンジ)が散りばめられています。
記念硬貨:1994年 ルカ・パチョーリ生誕500周年記念:イタリア 500リラ硬貨
晩年、ルカ・パチョーリは故郷サンセポルクロのフランシスコ会修道院に退き、静寂と瞑想の中で最後の日々を過ごしました。1517年にこの世を去りましたが、彼の遺志は著作を通じて、また数学と会計学に与えた多大な影響を通じて生き続けています。
引用文献 :Luca Pacioli – Pagina 25
次回2026年4月18日は「Giuseppe Verdi」です。
2026 年 3 月 28 日公開
【第39話】トスカーナ州出身の著名人:その15 ロベルト・ベニーニ
(Roberto Benigni)
ロベルト・ベニーニ(1952年10月27日、マンチャーノ・ラ・ミゼリコルディア生)
ロベルト・ベニーニは、アレッツォ県のマンチャーノ・ラ・ミゼリコルディアに生まれました。
両親のルイージとイゾリーナは共に農家で、彼は4人兄弟の末っ子であり、唯一の男の子でした。
1958年、家族全員でプラートに移住。地元のダティーニ商業技術学校を卒業後、演技の世界へ入ることを決意します。最初は歌手やミュージシャンとして活動を始め、1971年にパオロ・マジェッリ演出の舞台『裸の王様(Il re nudo)』でプラートのメタスタジオ劇場にてデビューを果たしました。
しかし、大きな転機となったのはジュゼッペ・ベルトルッチとの出会いでした。ベルトルッチは彼のために独白劇『カスパーレと故ジュリーアの息子、チョーニ・マリオ(Cioni Mario di Gaspare fu Giulia)』を書き下ろします。この公演はイタリア全土で大成功を収め、テレビシリーズ『オンダ・リベラ(Onda Libera)』への出演につながりました。これ以降、当時の批評家や一部の検閲官に邪魔をされることもありましたが、ベニーニのキャリアは右肩上がりに成長していきます
世界的な成功
1998年、映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』が公開。この作品で彼は世界的に有名になり、アカデミー主演男優賞を受賞しました。また、同作は外国語映画賞を受賞したほか、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリに輝きました。
2000年代初頭から現在までの代表作には、『ピノッキオ』や『ラ・ティグレ・エ・ラ・ネーヴェ(La tigre e la neve)』などがあります。近年は、テレビ、大学、劇場、さらには刑務所などで『神曲』の朗読を行う活動に力を入れています。
資産とビジネス
2018年、ベニーニはフォーブス誌によって「最も稼ぐイタリア人俳優」に選ばれ、その資産は2億4500万ドルに達するとされました。 彼の富は、カメラの前後の才能だけでなく、投資や広告提携によっても築かれています。彼はカラカラ浴場近くの超豪華なヴィラに住み、数軒のレストラン、サッカーチーム、香水ブランド、ファッションライン、ウォッカのブランド、粉ミルク製造会社などを所有しています。さらに、妻と共に映画制作会社「マランポ・チネマトグラフィカ」や、21軒の家屋と20の土地を保有する不動産会社も経営しています。
ロベルト・ベニーニの私生活
ロベルト・ベニーニは、1991年に女優のニコレッタ・ブラスキと結婚しました。
二人は映画『Tu mi turbi(君は僕を狂わせる)』のセットで出会い、それ以来離れることはありませんでした。
結婚式はチェゼーナのカプチン会修道院にて、ごく身内だけで執り行われました。
「それ以来、私たちは劇団のように何でも一緒にやってきました。
自分たちで映画を制作して自由を手に入れようと提案したのは彼女でした。
彼女は私に真実を与えてくれました。私が舞い上がっている時には地に足をつけさせてくれた。
彼女以外の顔、存在、息遣いは想像できません。私にとって彼女は祝福です。
本当にそうなのです」 (『Vanity Fair』誌へのコメントより)
なお、二人の間に子供はいません。
ロベルト・ベニーニの主な功績
ヴェネツィア国際映画祭での栄誉
2021年の第78回ヴェネツィア国際映画祭において、長年の功績を称えられ金獅子生涯功労賞を受賞しました。
多才な執筆活動
俳優や映画監督としてだけでなく、作家としても活動しており、これまでに10冊の著書を出版しています。
学術的評価
その文化的な貢献から、イタリア国内で9つの名誉学位を授与されているほか、カナダのトロント大学からは法学の名誉博士号を贈られています。
引用文献 :Chi è Roberto Benigni: biografia, carriera e patrimonio
次回2026年4月8日は「Luca Pacioli」です。
2026 年 3 月 18 日公開
【第38話】トスカーナ州出身の著名人:その14 オリアーナ・ファッラチ(Oriana Fallaci)
オリアーナ・ファッラチ(フィレンツェ、1929~2006)
オリアーナ・ファッラチは、20世紀のイタリア・ジャーナリズム界において最も象徴的な人物の一人でした。その独特なスタイルと、恐れを抱かずに立ち向かう取材への勇気によって、現代文化に消えることのない足跡を残しました。
コリエーレ・デッラ・セーラ紙の元編集長フェルッチオ・デ・ボルトリ氏は彼女を「我々の最も有名な女性作家」 と呼び、ロサンゼルス・タイムズ紙は彼女を「事実上世界の誰もが否定しないジャーナリスト」 と評しました。
1929年6月29日にフィレンツェで生まれた彼女は、自由とレジスタンス(抵抗運動)の価値観が深く刻まれた環境で育ちました。第二次世界大戦中、まだ十代だった彼女はイタリアのレジスタンス運動に参加しました。この経験が彼女の性格を形成し、闘争心を養うことになります。反ファシストの活動家であった父エドアルド・ファッラチが、幼い彼女をファシズム政権とナチス占領に対する抵抗運動へと導いたのです。
彼女は最初、医学の道に進みますが、執筆への情熱のためにすぐに中退します。1950年代にジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせ、イタリアの主要な雑誌と提携。雑誌『エポカ(Epoca)』でデビューし、その後『レウロペオ(L'Europeo)』で活動しました。後にニューヨークへ移住し、経済成長に沸くアメリカ社会の矛盾や、人種間の緊張といったテーマを扱った記事を執筆しました。
1960年代から70年代にかけて、彼女は非常に有名なレポーターとなります。ベトナム戦争や中東紛争といった現代の中心的課題に取り組み、影響力のある政治家や著名人、時の人々にインタビューを行いました
戦場ジャーナリスト、オリアーナ・ファッラチ
オリアーナ・ファッラチのキャリアは、1960年代に戦派特派員としての役割を引き受けたことで決定的な転換期を迎えます。彼女はベトナムに赴き、極めて冷静かつフィルターを通さないありのままの言葉で紛争を伝え、同時代で最も大胆なレポーターの一人としての地位を確立しました。ベトナムでの仕事は、同僚からの尊敬だけでなく、国際的な確固たる名声も彼女にもたらしました。
その後の数十年間、ファッラチはインド・パキスタン戦争、中東危機、チリのクーデターなど、極めて重要な歴史的出来事を記録しました。1968年、メキシコシティでの学生デモを取材中、トゥレクルトゥラーレ広場の虐殺に巻き込まれ重傷を負います。しかし、この事件は、真実がたとえ不都合で危険なものであってもそれを伝えるという彼女の信念を、より強固なものにしました。
そのキャリアを通じて、ファッラチは権力者に対して恐れを抱かずに立ち向かう能力で際立っていました。政治指導者、宗教的権威、著名人へのインタビューは国際的な名声を博しました。彼女がインタビューした著名な人物には、アヤトラ・ホメイニ、ゴルダ・メイア、インディラ・ガンディー、ムアンマル・カダフィ、ヘンリー・キッシンジャーなどが名を連ねています。
ホメイニ師へのインタビューの後に『Ayatollah』のタイトルで本を出版しましたが、同書はイランでは発禁処分となりました。彼女の著作活動は多岐にわたり、ジャーナリズムのルポルタージュから小説まで幅広く展開しました。
彼女は晩年をニューヨークで過ごし、肺ガンとの闘病生活は『the Other One』の中で語っています。彼女は死の前日、2006年9月14日にイタリアに帰国し、生まれ故郷のフィレンツェの病院で9月15日の夜に死去しました。
『生まれてこなかった子への手紙』(1975年):
この作品は世界中で爆発的なヒットを記録し、数百万部を売り上げました。
Miss Fallaci - Trailer Ufficiale (2024)
参考文献 :Oriana Fallaci, il coraggio di scrivere
次回2026年3月28日は「Robertop Benigni」です。
2026 年 3 月 8 日公開
【第37話】トスカーナ州出身の著名人:その13 インドロ・モンタネッリ(Indro Montanelli)
インドロ・モンタネッリ(1909年フチェッキオ –2001年ミラノ)
彼は1909年、トスカーナの丘陵地帯にある小さな町、フチェッキオで生まれました。父セスティリオ・モンタネッリは控えめな高校校長でしたが、地元の裕福な地主のひとり娘であるマッダレーナ・ドッドリと結婚しました。「インドロ」という名は父がヒンドゥー教の神「インドラ」を男性化したもの として名付けたものです。
幼少期を故郷で過ごした彼は、20世紀初頭に約20年間フチェッキオの町長を務めたエミリオ・バッシの別荘によく滞在していました。モンタネッリはバッシを「養祖父」のように慕っており、その深い絆から、1987年に設立された自身の財団にはバッシの名も併記することを望みました。
リエーティで高校を卒業した後、フィレンツェ大学の法学部に進学。また、フランスに何度も滞在し、そこでジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせました。その後、政治学の学位も取得し、カナダやエチオピアからの重要なルポルタージュを手がけるようになります。
その後、新聞『イル・メッサッジェーロ』の特派員としてスペイン内戦へ向かいますが、サンタンデール戦役に関する論争を呼ぶ記事を書いたためにイタリアへの帰国を余儀なくされます。帰国後、彼は『コリエーレ・デラ・セラ』紙に職を得ました。
アルバニアやドイツを巡り、崩れゆく当時の世界を精密に描写した一連の旅の後、第二次世界大戦の勃発を追いました。ノルウェーからフランス戦線、さらにはギリシャ戦役の従軍記者として活動しました。
1942年、モンタネッリは若きマギー・ド・タルシエンヌと結婚。1944年には彼女と共にサン・ヴィットーレ刑務所での過酷な収監生活を経験しますが、母の懇願を受けたシュスター枢機卿の介入により救い出されました。その後、追手を逃れるためにスイスへ亡命し、終戦までそこで過ごしました。
『イル・ジョルナーレ』の創刊と襲撃
1974年、モンタネッリは自ら編集長を務める新聞『イル・ジョルナーレ』を創刊。グイド・ピオーヴェネやエンツォ・ベッティッツァといった国際的に著名なジャーナリストたちを呼び寄せました。
しかし、彼の精力的な活動は極左テロ組織「赤い旅団」の標的となり、1977年6月2日、通りで襲撃され両脚を銃撃されるという重傷を負いました。
『ラ・ヴォーチェ』と晩年
その後、当時『イル・ジョルナーレ』のオーナーであったシルヴィオ・ベルルスコーニとの対立から、1994年に同紙を去ります。同年3月22日、若手記者たちと共に新紙『ラ・ヴォーチェ(声)』を創刊しましたが、この新たな挑戦は資金難によりわずか1年で幕を閉じることとなりました。
長らく病を患っていたインドロ・モンタネッリは、2001年7月22日、ミラノの自宅で二番目の妻コレット・ロッセッリら家族に見守られながら、92歳の生涯を閉じました。
主な功績 彼は、古代から20世紀末までのイタリアの歴史を平易な文体で綴った歴史叢書『イタリアの歴史(Storia d'Italia)』の著者でもあります。どの活動においても、モンタネッリはその鋭い筆致で幅広い読者の支持を獲得し続けました。
Indro Montanelli – Storia d’Italia (12 voll.) – Corriere della Sera 2003
Incontri di Indro Montanelli - 03 - Incontro con Carlo Levi [1959]
YouTube·PagliaQuotidiana·2021/03/29
引用文献 :indro Montanelli, una vita dedicata al giornalismo
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2026 年 2 月 28 日公開
【第36話】トスカーナ州出身の著名人:その12 グッチョ・グッチ(Guccio Gucci)
グッチョ・グッチ(1881年フィレンツェ生、1953年ミラノ没)は、
ファッションブランド「グッチ(Gucci)」の創設者として知られる
イタリアの実業家、ファッションデザイナーです。
皮革職人であった父ガブリエッロ・グッチと母エレナ・サンティーニの間に生まれた彼は、17歳の時に成功を夢見てトスカーナを離れる決意をしました。フランスでの短い滞在の後、端正な顔立ちとエレガントな佇まいが評価され、ロンドンのサヴォイ・ホテルでエレベーター係として採用されました。
このホテルは市内でも指折りの豪華で格式高い場所でした。裕福な宿泊客たちの洗練された服装やアクセサリー、そして彼らが好んだ乗馬のスタイルは、グッチョに深い感銘を与えました。
この時の強い憧れが、後の彼のファッションの道における基礎となります。上流社会の人々に日常的に接することで、彼は洗練された感覚を養いました。また、イギリス滞在中に英語、フランス語、ドイツ語を完璧に習得し、宿泊客とのコミュニケーションに役立てました。
4年後の1901年、グッチョはトスカーナに戻ることを決めます。1902年にはアイーダ・カルヴェッリと結婚。彼女の父は仕立て屋であり、グッチョのビジネスを大いに助けました。その後、ミラノの有名な皮革製品店「フランツィ社(Ditta Franzi)」で新たなキャリアをスタートさせ、その行動力によって短期間で店長に昇進。すぐにヨーロッパ中を飛び回り、買い付けや注文をこなすようになりました。
1922年、フィレンツェの中心街で空き店舗を見つけた彼は、ずっと夢見ていた高級アクセサリー店をその場所に開くことを決意します。ビジネスの根底にあるコンセプトは、まさにサヴォイ・ホテルで培ったものでした。
もう一つの重要な直感は、当時のヨーロッパの上流階級で非常に流行していた「乗馬の世界」をデザインに常に取り入れたことです。例えば、現在もブランドの象徴となっている「馬具のくつわ」のモチーフがその代表です。また、手綱や鞍(くら)を模したアクセサリーも、グッチのラインナップの重要な一部となりました。
腕利きのトスカーナ職人だけを雇うという方針によって、店は瞬く間に大きな成功を収め、1932年にはさらに2つの支店を開設。1937年にはルンガルノ・グイッチァルディーニに小さな工房を構え、ついに看板に「G. Gucci」の名を掲げました。
⇐ 1938年にはローマのコンドッティ通りに店舗を構えます。
1944年、フィレンツェの工房は爆撃により被害を受けますが、息子アルドの助けを借りて迅速に修復されました。1952年にはミラノにも支店を開設します。
その翌年、グッチョ・グッチは急逝しましたが、父の志を継いだ息子のアルドとロドルフォが事業を継続し、グッチを世界的な成功へと導いていくことになります。
Gucci ミラノ店
有名な「ダブルG」ロゴ
グッチの最も象徴的な要素の一つが、ダブルGロゴです。このシンボルは、最初はバッグに使用されましたが、今ではブランド全体を象徴するエンブレムとなりました。ダブルGのロゴは、グッチの品質とスタイルに対する情熱を象徴しています。
引用文献 :WikiCeo https://wikiceo.it › Guccio_Gucci
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2026 年 2 月 18 日公開
【第35話】トスカーナ州出身の著名人:その11 ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini)
ジャコモ・プッチーニ(ルッカ、1858年 - ブリュッセル、1924年)
1858年12月22日、ルッカに生まれたジャコモは、ミケーレ・プッチーニとアルビーナ・マージの間に生まれた9人兄弟の6番目の子供でした。プッチーニ家は数世代にわたりルッカ大聖堂の楽長を務めてきましたが、ジャコモも5歳で父を亡くした後、母方の叔父のもとへ修行に出されました。
ルッカを離れた後、1880年から1883年まで、彼はミラノ音楽院で学びました。これは、母親の嘆願を受けたマルゲリータ王妃から、1年間、月100リラの奨学金を与えられたおかげでした。この音楽院では、アントニオ・バッツィーニやアミルカーレ・ポンキエッリといった巨匠の指導を受けました。この数年間、彼は友人のピエトロ・マスカーニと同じ部屋を分け合って過ごしました。
1883年、彼はソンツォーニョ出版社が主催する一幕物オペラのコンクールに『レ・ヴィッリ(妖精ヴィッリ)』で参加しましたが、結果は落選。しかし、この台本を手がけたフォンターナはプッチーニのために、当時ミラノの知識人界で著名な人物数名にオペラを個人的に試聴してもらえるよう、ジャーナリストのマルコ・サラの居間での音楽会を企画したのです。出席者の中には、アリーゴ・ボイト、ジョヴァンニーナ・ルッカ、アルフレード・カタラーニなどがいました。そこでプッチーニはこの音楽を演奏し、大きな称賛を浴びたのです。
こうして1884年5月31日、この作品はミラノのダル・ヴェルメ劇場で上演され、ソンツォーニョ社のライバルであったリコルディ社のジュリオ・リコルディの後援を受け、観客と批評家の両方から熱狂的な歓迎を受けました。この成功によりプッチーニはリコルディ社と契約を結ぶことができ、作曲家の生涯を通じて続く協力関係が生まれました。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』です。
プッチーニは1880年代後半に、ピアノの生徒であったエルヴィーラ・ボントゥーリと駆け落ち同然で一緒になり、息子アントーニオをもうけました。その後、エルヴィーラの前夫の死を経て1904年に正式に結婚し、さまざまな波乱を乗り越えながら生涯を共にすることになります。
1891年には、トスカーナ地方のトッレ・デル・ラーゴに移り住みました。彼はその素朴な世界を愛し、趣味の狩猟や芸術家仲間との馬鹿騒ぎを楽しむための理想的な場所だと考えていました。マエストロ(プッチーニ)はこのトッレ・デル・ラーゴを自身の隠れ家とし、ここで彼の最も成功した作品の数々が作曲されました。
第3作目の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなりました。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれました。
後期ロマン派オペラの傑作の中でも、『ラ・ボエーム』は4つの場面で構成された劇的統合の模範といえます。続く『トスカ』は、プッチーニが強烈な色彩を持つ歴史メロドラマへと踏み出した作品です。そして『蝶々夫人』は、プッチーニにとって初の異国情緒あふれる作品となりました。1904年のスカラ座での初演は散々な失敗(fiasco)に終わりましたが、何度かの改訂を経て、ブレ-シアのグランデ劇場で再演されると大成功を収め、その名声は今日まで続いています。
プッチーニの折衷主義と独創的な解決策への絶え間ない探求は、1918年にニューヨークで初演された、いわゆる『三部作』という3つの一幕物オペラにおいて実現されました。この三つの作品は対照的な性格を持っており、『外套』は悲劇的でヴェリズモ的、『修道女アンジェリカ』は哀歌的で叙情的、そして『ジャンニ・スキッキ』は喜劇的です。
晩年、彼は『トゥーランドット』の制作に打ち込みましたが、1924年に喉の腫瘍のため急逝したことで未完のまま残されました。その後、プッチーニの草稿に基づき、フランコ・アルファーノによって完成されました。
指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニは、初演の際、プッチーニが書き残した最後の音符、すなわちリューの死に伴う葬送の行列の場面で演奏を中断し、観客に向かってこう語りました。 「ここで上演を終えます。この時点でマエストロは亡くなりました。」 マエストロの墓は、トッレ・デル・ラーゴにある別荘の礼拝堂にあります。
自動車への情熱
音楽の他に、プッチーニには大きな情熱を傾けていたものがありました。それは自動車で、彼は生涯で14台もの車を購入しました。
1903年2月25日、ルッカから住まいのあるトッレ・デル・ラーゴへ戻る途中、妻のエルヴィーラと息子のアントニオを乗せて車を運転していた際、激しい交通事故を起こしました。車は溝に転落し、プッチーニは足を骨折。その影響で『蝶々夫人』の執筆は数ヶ月間遅れることとなりました。
トスカニーニへの感謝
プッチーニは感謝の気持ちを忘れない人でした。それは、1923年にスカラ座で上演された『マノン・レスコー』を指揮したアルトゥーロ・トスカニーニに宛てた、以下の言葉からも分かります。
「君は私の人生で最大の満足を与えてくれた!君の解釈は、私が考えていた以上のものだ……。昨夜、君の偉大なる魂のすべてと、古き友であり、かつての戦友である私への愛を確かに感じた。君が誰よりも、30年前の私の若々しく情熱的な精神のすべてを理解してくれたことが、私は幸せだ。心の底から感謝する。」
引用文献 :Giacomo Puccini biografia,Tosca alla Scala, dieci curiosità su Giacomo Puccini.
次回2026年2月28日は「Guccio Gucci」です。