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【第29話】トスカーナ州出身の著名人:その5 フィリッポ・ブルネッレスキ(Filippo Brunelleschi)

フィリッポ・ブルネッレスキ(フィレンツェ、1377 – フィレンツェ、1446)
ルネサンス期のイタリアの建築家、エンジニア、彫刻家、数学者、金細工師、舞台デザイナーでした。彼は近代の最初の建築家およびデザイナーの一人に数えられています。

フィリッポは、1377年に裕福なフィレンツェの家庭に生まれ、そのおかげで確かな教育を受けることができました。公証人であった彼の父は、彼がデッサンに興味を持っていることを認め、その訓練を心から支援しました。
1401年、まだ若かった彼は、フィレンツェの洗礼堂の第二の青銅扉のために開かれたコンペティションに参加し、規定のテーマ「イサクの犠牲」に従ってレリーフパネルを作成しました。ロレンツォ・ギベルティのパネルが勝利したことを知った時の彼の落胆は大きかったのですが、彼は落胆することなく、むしろ古代芸術の研究を深めることを決意し、翌年友人のドナテッロと共にローマへ向いました。これは非常に教育的な経験となりました。
ブルネッレスキとギベルティの二人の提出作品は、現在もフィレンツェの国立バルジェッロ美術館に残されています。

「イサクの犠牲」
左がギベルティの作品、
右がブルネッレスキの作品
その後の数年間はフィレンツェで過ごし、1416年にブルネッレスキは、二枚の穴の開いた木製タブレットと鏡を用いて線遠近法を完成させました。これにより、錯覚的に現実の世界の視覚が作り出されました。

1418年、彼には頭角を現す二度目のチャンスが訪れました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設のためのコンペティションです。彼はオーブンほどの大きさの模型と広場での実演をもって挑み、その職務を勝ち取りました。足場なしで自立するこのクーポラが奉献されたのは、1436年になってからのことです。
【1418年のコンペティション】
1418年、ローマから数年前に戻っていたブルネッレスキは、クーポラの問題を解決できるのは自分だけだと確信していました。しかし、委員会はコンペティションの勝者を決めず、結果としてブルネッレスキとギベルティが共同でその仕事に割り当てられました。
ブルネッレスキにとって、これは彼の専門性に対する侮辱でした。ギベルティとの度重なる議論の後、彼はプロジェクトの成功に対する自身の知識と能力の重要性を証明することを決意し、病気のふりをして数日間仕事に現れませんでした。彼の不在は職人たちの間に大きな混乱を生み出し、彼なしではプロジェクトが進まないことが明らかになりました。ギベルティは職務から解任され、ブルネレスキは正式に現場の親方となり、彼のプロジェクトを推進しました。
【ブルネッレスキのクーポラの構造】
ブルネッレスキのクーポラの特異性は、その「二重ドーム構造」にあります。これは、実際には建築家が内部と外部の二つのドームを設計し、それらを厚い石の肋材で接続したことを意味します。この解決策のおかげで、ブルネッレスキのクーポラは「自立式」であり、それ自体で支えられ、建設段階では芯となる木製の足場を必要としませんでした。この構造の特別な特徴により、ブルネッレスキは、すでに建設されたクーポラの部分に取り付けられ、建設が上に進むにつれてますます高く持ち上げられる移動式足場のシステムを開発することができました。
ブルネッレスキのクーポラは建築の傑作と見なされており、当時は世界最大のドームであり、今日でもレンガ造りで建設されたものとしては最大です。
1420年代には、イノチェンティ孤児院(L'ospedale degli innocenti) とサン・ロレンツォ教会内の旧聖具室(la sagrestia vecchia) も作りました。
旧聖具室は、この建築家が完成させた唯一の作品です。実際、ブルネッレスキの作品は数多くありますが、ほとんどの場合、完成に至らなかったことを知っておく必要があります。この高齢の芸術家は1446年にフィレンツェで亡くなり、彼の遺骨は今もこの街に安置されています。
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内の旧聖具室(Sagrestia Vecchia)
建築はブルネッレスキ(1420〜1428年)彫刻装飾はドナテッロ(1428〜1443年)という
初期ルネッサンスを代表する二人がタッグを組んだ空間。
引用文献:Filippo Brunelleschi, biografia e opere - Musei Italiani
次回12月18日は「Filippo Lippi」です。