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【第28話】トスカーナ州出身の著名人:その4 ジョヴァンニ・ボッカッチョ (Giovanni Boccaccio)

ジョヴァンニ・ボッカッチョ (Giovanni Boccaccio:Certaldo 1313 - Certaldo 1375 )
ジョヴァンニ・ボッカッチョは、1313年にフィレンツェ近郊のチェルタルドで、裕福な父と身元不明のフランス人女性(恐らく使用人)との間に生まれた非嫡出子でしたが、優れた知性を持っていました。父の仕事に従い、ジョヴァンニはわずか14歳でナポリに行き、商人としての技術を学び、両替商や高利貸しの実務を習得しました。1331年頃、ボッカッチョはナポリ大学で法学の授業に出席しますが、父の職業を継ぐことを拒否し、活気あるアンジュー家の宮廷に出入りするようになります。
当時のナポリ王国はフランス系のアンジュー家(シャルル・ダンジューが創始)によって統治されており、首都として栄えていました。

チェルタルド(FI)のボッカッチョの家
彼は世俗的な楽しみや、初めての恋に身を捧げ、フランスのロマンス、プロヴァンスの詩、フィレンツェの詩に熱中します。(ダンテにはベアトリーチェ、ペトラルカにはラウラがいたように、ボッカッチョには彼の女性フィアメッタがいました)この時期に、彼はフランスのロマンスやラテン語の作品から取った素材をフィレンツェの俗語で表現し、若い頃の恋愛について語り、貴族、特に女性の聴衆のための娯楽文学を創造したいという願望を強めます。この基本構想に従って、『フィロストラート (il Filostrato)』、『テーセイダ (la Teseida)』、『フィロコロ (il Filocolo)』を執筆します。
その頃、ボッカッチョは貸付を通じてナポリ宮廷を支配していたバルディ家の事務所で働いていたのですが、1340年、バルディ家の会社の破綻とナポリとフィレンツェの関係悪化により、トスカーナへの帰国を余儀なくされます。ボッカッチョにとって困難な時期が始まり、この苦悩に加え、1348年の悲劇的な「ペスト」の最中に父をも亡くします。
しかし、この数年間で、彼は宮廷文学から徐々に離れ、写実的で庶民的な物語へと接近し、それは1349年から1353年にかけて執筆した『デカメロン (il Decameron)』の完成において頂点に達します。この作品はすぐに成功を収めました。
『デカメロン (il Decameron)』、または『デカメローネ (il Decamerone)』(古代ギリシャ語からの複合語で、文字通りには「十日間の」、転じて「十日間でなされた作品」という意味です。)
1348年、黒死病(ペスト)がフィレンツェに猛威を振るいます。良家の若者10人(少女7人、少年3人)が田舎に避難し、することがないので、時間をつぶすために物語を語り合うことにします。一人一日一話ずつ、十日間続けます。王や王子、商人や聖職者だけでなく、庶民や農民を主人公とする物語の独創性と大胆不敵さは、私たちに中世の文明の一断面を再現しており、今日でも読者を魅了する力を持っています。
『デカメロン』は、ヨーロッパ文学史上、最初にして最も偉大な散文の傑作の一つですが、この本は不道徳またはスキャンダルの烙印を押され、多くの時代で検閲を受けました。
※『デカメロン』は、ピエル・パオロ・パゾリーニやタヴィアーニ兄弟を含む様々な監督によって映画化もされています。
その頃、ボッカッチョはペトラルカと友情を結び、彼を文人、知識人の象徴と見なすようになり、彼の影響で俗語での作品制作から離れ、古典の研究に専念するようになります。また、宗教的な良心に苛まれ、『デカメロン』を焼き捨てたいとさえ思ったようです。
また、ボッカッチョはイタリア文学において「オッターヴァ・リーマ (ottava rima)」、すなわち八行詩の形式を最初に使用した作家の一人とされています。

ボッカッチョはフィレンツェで家庭教師によって早くからダンテの作品を学んでいたと伝えられ、学者およびヒューマニストとして、ボッカッチョはダンテの『神曲(la Commedia)』の最も初期の注釈者の一人です。1373年、彼はフィレンツェ市から『神曲 』を公の場で朗読し、注釈を加える任務を受けますが、健康状態の悪化により中断してしまいます。
『神曲(la Commedia)』は、1357年から1362年の間にボッカッチョによって書かれた『ダンテ賛歌の小論 (Trattatello in laude di Dante)』の中で「神聖な (Divina)」という形容詞がつけられ、以後『la Divina Commedia』と呼ばれるようになりました。
その後、彼はすぐにチェルタルドに引退し、1375年に亡くなります。
ダンテの作品『la Divina Commedia』を日本語で『神曲』と訳したのは、森鷗外です。鷗外がこの題名を付けたのは、1891年にこの作品を日本に初めて紹介した時とされています。直訳すれば「神聖喜劇」となるところを、鷗外が『神曲』と訳し、この題名が日本だけでなく中国でも現在まで使われるようになりました。
フィレンツェ語の三つの冠 (Le Tre Corone della lingua fiorentina):
中央左からペトラルカ、ボッカッチョ、ダンテ
(イタリア文学の三巨匠)
引用文献:Biografia e opere principali di Giovanni Boccaccio
次回12月8日は「Filippo Brunelleschi」です。