彼は世俗的な楽しみや、初めての恋に身を捧げ、フランスのロマンス、プロヴァンスの詩、フィレンツェの詩に熱中します。(ダンテにはベアトリーチェ、ペトラルカにはラウラがいたように、ボッカッチョには彼の女性フィアメッタがいました)この時期に、彼はフランスのロマンスやラテン語の作品から取った素材をフィレンツェの俗語で表現し、若い頃の恋愛について語り、貴族、特に女性の聴衆のための娯楽文学を創造したいという願望を強めます。この基本構想に従って、『フィロストラート (il Filostrato)』、『テーセイダ (la Teseida)』、『フィロコロ (il Filocolo)』を執筆します。
その頃、ボッカッチョは貸付を通じてナポリ宮廷を支配していたバルディ家の事務所で働いていたのですが、1340年、バルディ家の会社の破綻とナポリとフィレンツェの関係悪化により、トスカーナへの帰国を余儀なくされます。ボッカッチョにとって困難な時期が始まり、この苦悩に加え、1348年の悲劇的な「ペスト」の最中に父をも亡くします。
しかし、この数年間で、彼は宮廷文学から徐々に離れ、写実的で庶民的な物語へと接近し、それは1349年から1353年にかけて執筆した『デカメロン (il Decameron)』の完成において頂点に達します。この作品はすぐに成功を収めました。
『デカメロン (il Decameron)』、または『デカメローネ (il Decamerone)』(古代ギリシャ語からの複合語で、文字通りには「十日間の」、転じて「十日間でなされた作品」という意味です。)
1348年、黒死病(ペスト)がフィレンツェに猛威を振るいます。良家の若者10人(少女7人、少年3人)が田舎に避難し、することがないので、時間をつぶすために物語を語り合うことにします。一人一日一話ずつ、十日間続けます。王や王子、商人や聖職者だけでなく、庶民や農民を主人公とする物語の独創性と大胆不敵さは、私たちに中世の文明の一断面を再現しており、今日でも読者を魅了する力を持っています。
『デカメロン』は、ヨーロッパ文学史上、最初にして最も偉大な散文の傑作の一つですが、この本は不道徳またはスキャンダルの烙印を押され、多くの時代で検閲を受けました。
※『デカメロン』は、ピエル・パオロ・パゾリーニやタヴィアーニ兄弟を含む様々な監督によって映画化もされています。