【第30話】トスカーナ州出身の著名人:その6 フィリッポ・リッピ (Filippo Lippi)
フィリッポ・リッピ : Filippo Lippi (1406年 - 1469年)
フィリッポ・リッピは、ルネサンス期の主要な芸術家の一人であり、マザッチョの画派の継承者です。ベアート・アンジェリコやドメニコ・ヴェネツィアーノと共に、フィレンツェ・ルネサンスの主要な担い手として活動し、フランドル絵画を含むより幅広い影響を取り入れながら、生涯を通じてその様式を革新しました。
フィリッポ・ディ・トンマーゾ・リッピは1406年、フィレンツェで、肉屋のトンマーゾ・ディ・リッポとその妻アントニア・ディ・セルの間に生まれました。アントニアは出産時に亡くなり、彼は2歳の時に兄と共に父の姉妹であるモンナ・リパッチアに預けられます。1414年、8歳で、兄と共に近くのカルミネ修道院のカルメル会修道士の元に入れられました。1424年には、マソリーノ・ダ・パニカーレとマザッチョによるブランカッチ礼拝堂の装飾を目撃し、これが彼の芸術的才能の開花に決定的な役割を果たしました。
マソリーノ・ダ・パニカーレとマザッチョによるブランカッチ礼拝堂の装飾
1452年、フィリッポ・リッピはフィレンツェからプラートに移り、プラート大聖堂の巨大なフレスコ画連作に取り組み始め、1466年に完成させました。この連作は、当時の彼の芸術的様式の成熟を象徴しています。
プラート滞在中、50歳の頃に起こした若い修道女ルクレツィア・ブーティとの駆け落ち(自宅に連れ帰ったとされる)で、一大スキャンダルへと発展し修道院へ出入り禁止となります。二人の間には、1457年にフィリッピーノ・リッピが、1465年に娘のアレッサンドラ・リッピが生まれました。修道士フィリッポと修道女ルクレツィアの関係は当時大きなスキャンダルを引き起こし、教皇庁からはあらゆる手段で反対されました。しかし、画家を高く評価していたコジモ・イル・ヴェッキオ(ロレンツォ・イル・マニーフィコの祖父)の尽力のおかげで、夫婦はピウス2世から誓約の免除を得て結婚し、二人の関係を正式なものとすることができました。
⇐リッピのプラートのフレスコ画に描かれた「サロメ」としてのルクレツィア・ブーティ
フィリッポ・リッピは1469年にスポレートで亡くなり、未完のまま残された一連のフレスコ画は後に息子のフィリッピーノによって完成されました。
「聖母子と二人の天使」
イタリア・ルネサンスで最も愛されている作品の一つ、フィリッポ・リッピの「聖母子と二人の天使」は、神聖さと人間性が融合した傑作として、フィレンツェのウフィツィ美術館に収蔵されています。1460年から1465年頃に板にテンペラで制作されたこの作品は、その構成の優雅さと表現の繊細さで人々の目を惹きつけ、リアリズムと象徴主義の完璧なバランスを保っています。
構図の両脇に配置された天使たちは、情景に軽快さとダイナミズムを加えています。特にそのうちの一人は、観察者に向かって繊細で、ほとんど遊び心のある微笑みを浮かべ、宗教画にありがちな厳粛さを打ち破っています。この天使は、その生き生きとした表情でしばしば言及され、この絵画を有名にした要素の一つであり、サンドロ・ボッティチェッリのような後続の芸術家にも影響を与えました。
「フィリッピーノとボッティチェッリ」
フィリッピーノ・リッピはプラートで生まれ、1467年に父フィリッポが最後の大きな絵画制作、すなわちスポレート大聖堂の後陣に取り組んでいたため、父と共にスポレートに移りました。父の死から数年後の1472年、おそらく15歳だったフィリッピーノは「サンドロ・ディ・ボッティチェッリの画工」として記録されています。
ボッティチェッリと二人のリッピの関係は特異です。ボッティチェッリはフィリッポ・リッピのもとで弟子として修業し、そこから線と色彩の絵画の基礎や、優雅さに満ちたポーズの人物像による物語の構想を学びました。その一方で、フィリッポの息子であるフィリッピーノは、わずかに年上のボッティチェッリの工房で修業し、そこで父の様式的要素の一部も習得しました。
⇐フィリッピーノ・リッピ自画像(プラート、1457年ーフィレンツェ、1504年)
引用文献:Storia di Filippo Lippi, un innovatore del rinascimento
次回12月28日は「Lorenzo di Piero de' Medici」です。
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