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【第31話】トスカーナ州出身の著名人:その7  ロレンツォ・ディ・ピエロ・デイ・メディチ(Lorenzo di Piero de’ Medici)

Lorenzo di Piero de' Medici
(フィレンツェ、1449年 - カレッジ、1492年)
現代では「Lorenzo il Magnifico(豪華王)」として知られている、メディチ家の中で最も輝かしく「豪華王」の名にふさわしい人物でした。巧みな政治家、偉大な芸術の保護者(パトロン)、そして人文主義者であった彼は、他の誰よりもルネサンスの理想を体現し、フィレンツェを史上最大の黄金時代へと導きました。
ロレンツォは1449年の元日、一族が政治的躍進を遂げている中で生まれました。祖父であるメディチ家の家長、コジモ・イル・ヴェッキオは、多くの政治家や商業・手工業ギルドの支持を巧みに得ていました。コジモは貴族層に対し、一般市民や市民階級(ブルジョワジー)の利益を守る庇護者として振る舞い、一族の基盤を築いたのです。
1465年から1466年にかけて、若きロレンツォはミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、ローマを歴訪しました。主な目的は家業の金融業務でしたが、フィレンツェと同盟関係にある(あるいは同盟を望む)各国の統治者たちと外交関係を築くという重要な役割も果たしました。
ロレンツォの人生において、女性たちは重要な役割を果たしていました。父方の家系から富、権力、影響力を受け継いだ一方で、母方の家系からは素晴らしい教育と、人文主義や芸術への深い情熱を受け継ぎました。
彼の母、ルクレツィア・ディ・トルナブオーニは非常に教養が高く、尊敬を集める女性でした。彼女自身も詩を書き、芸術家や作家を支援しました。彼女のおかげで、ロレンツォはボッティチェッリ、ポリツィアーノ、ピコ・デラ・ミランドラといった知識人たちに囲まれて育ちました。彼女は銀行業務にも精通しており、生涯を通じてロレンツォの強力な味方であり続けました。


         Lucrezia di Tornabuoni (1427 - 1482)
ロレンツォは若い頃から熱狂的な芸術愛好家でした。母が保護していた知識人のサークルの中で育ち、修辞学、詩、音楽など多岐にわたる分野を学びました。
政権を握ると、彼は両親が始めたパトロン活動をさらに発展させました。彼の庇護のもと、サンドロ・ボッティチェッリ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチといった天才たちがその才能を開花させたのです。
彼の最大の功績の一つは、サン・マルコ修道院の庭園に芸術アカデミーを設立したことです。そこには市内で最も有望な若手芸術家たちが集められました。特に若きミケランジェロは、ロレンツォから個人的な賞賛と信頼を勝ち取ったといわれています。
メディチ家は何世代にもわたり、フィレンツェ歴史地区の戦略的な再開発を推進してきました。彼らは大規模な建築事業に着手し、その一環としてサン・ロレンツォ聖堂をルネサンス様式で再建しました(設計はブルネレスキ)。 サン・ロレンツォ聖堂は、フィレンツェ・ルネサンスを象徴する場所の一つです。ここにはドナテッロ、デジデリオ・ダ・セッティニャーノ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ドメニコ・ギルランダイオといった巨匠たちの傑作が収められており、ロレンツォ自身の墓もここにあります。
メディチ家の政治的繁栄の真の立役者である祖父コジモは、孫のロレンツォをとりわけ可愛がり、対話や議論に多くの時間を割きました。 当初、高齢のコジモは、長男ピエロ(ロレンツォの父)が「痛風病み(イル・ゴットーゾ)」というあだ名がつくほど病弱だったため、次男のジョヴァンニを後継者に選んでいました。しかし、1463年にジョヴァンニが亡くなると、コジモは一族の未来の希望をロレンツォとその弟ジュリアーノに託すことにしました。そのため、コジモは息子ピエロに対し、一流の統治者を育てるべく、孫たちの教育に細心の注意を払うよう言い残したのです。
引用文献:Lorenzo il Magnifico, un principe senza corona
次回2026年1月8日は「Leonardo da Vinci」です。
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