第一次世界大戦に少尉として参加した後、モンターレはカミッロ・スバルバロ(Camillo Sbarbaro)も所属していたリグーリア州の詩人のグループと交友を持つようになります。1920年代には、トリノのピエロ・ゴベッティ(Piero Gobetti)のサークルに接近しました。1925年、ゴベッティの出版活動のおかげで、モンターレの最初の詩集『イカの骨(Ossi di seppia)』が出版されました。
同年、モンターレはベネデット・クローチェ(Benedetto Croce)によって広められた「反ファシスト知的人宣言」に署名しましたが、モンターレ自身は独裁政権の時代を控えめで距離を置いた態度で過ごしていました。
1927年、著者はフィレンツェに移住し、出版社ベンポラッド社(Bemporad)および著名な雑誌『ソラーリア(Solaria)』の編集に携わりました。自身の詩の執筆に加え、モンターレはさまざまな編集業務を行い、給与の足しにするために翻訳の仕事もしました。
その間、1933年には、ファシズムに対する姿勢を最も鮮明にしていた出版社エイナウディ(Einaudi)から詩集『機会(Le occasioni)』が出版されました。
第二次世界大戦直後、モンターレは、非常に名誉ある職務であるミラノの「コリエーレ・デッラ・セーラ( Il Corriere della Sera)」紙の編集者となりました。実際、この詩人は有名な3面記事(文化・芸術欄)での文化的な記事を通じて、全国的に認められた体制側の知識人となりますが、その後、沈黙の時期を過ごします。
1971年、主に妻ドルシッラ・タンツ(Drusilla Tanzi)の思い出に捧げられた『サトゥーラ(Satura)』と題する詩集で詩作に復帰します。
ドルシッラ・タンツィは作家であり、著名な作家ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)の叔母にあたります。モンターレとは、1927年頃に出会い、長年事実上のパートナーとして共に過ごし、二人が正式に結婚したのは1958年のことです。彼女の没後、モンターレは彼女への追悼と愛を込めて、詩集『サトゥーラ(Satura)』の中に「クセニア(Xenia I, Xenia II)」という有名な連作詩を収め、詩作に復帰したのです。
⇐Montale と Drusilla(右側)1928年
詩人モンターレは、自らの生きる時代と人間という存在について鋭く批判的に考察を続けながら、その人生において倫理的、哲学的に貫した姿勢を崩すことはありませんでした。そして、モンターレが確立した詩風は、その後のあらゆる重要な詩作運動に大きな影響を与えました。1967年、モンターレはイタリア共和国の終身上院議員に指名されるとともにケンブリッジ大学から名誉学位を受け、1975年にはノーベル文学賞を受賞しています。
1981年、『Opera in versi』の校訂版発表の直後に、モンターレは84歳でミラノでその生涯の幕を閉じました。
葬儀には4万人を超える人々が出席したとされています。