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【第55話】リグーリア州出身の著名人:その5  エウジェーニオ・モンターレ(Eugenio Montale)

エウジェーニオ・モンターレ(ジェノヴァ 1896年 – ミラーノ 1981年)
モンターレは、1896年に小さな商店を営む夫婦の6番目の子供として、ジェノヴァで生まれました。
青春時代、モンターレは声楽のレッスンを受け、非常に才能に恵まれていたにもかかわらず、
数年後に音楽の勉強を中断し、そのキャリアを諦めたのです。
その一方で実業学校に通い、簿記の学位を取得しました。
第一次世界大戦に少尉として参加した後、モンターレはカミッロ・スバルバロ(Camillo Sbarbaro)も所属していたリグーリア州の詩人のグループと交友を持つようになります。1920年代には、トリノのピエロ・ゴベッティ(Piero Gobetti)のサークルに接近しました。1925年、ゴベッティの出版活動のおかげで、モンターレの最初の詩集『イカの骨(Ossi di seppia)』が出版されました。
同年、モンターレはベネデット・クローチェ(Benedetto Croce)によって広められた「反ファシスト知的人宣言」に署名しましたが、モンターレ自身は独裁政権の時代を控えめで距離を置いた態度で過ごしていました。
1927年、著者はフィレンツェに移住し、出版社ベンポラッド社(Bemporad)および著名な雑誌『ソラーリア(Solaria)』の編集に携わりました。自身の詩の執筆に加え、モンターレはさまざまな編集業務を行い、給与の足しにするために翻訳の仕事もしました。
その間、1933年には、ファシズムに対する姿勢を最も鮮明にしていた出版社エイナウディ(Einaudi)から詩集『機会(Le occasioni)』が出版されました。
第二次世界大戦直後、モンターレは、非常に名誉ある職務であるミラノの「コリエーレ・デッラ・セーラ( Il Corriere della Sera)」紙の編集者となりました。実際、この詩人は有名な3面記事(文化・芸術欄)での文化的な記事を通じて、全国的に認められた体制側の知識人となりますが、その後、沈黙の時期を過ごします。
1971年、主に妻ドルシッラ・タンツ(Drusilla Tanzi)の思い出に捧げられた『サトゥーラ(Satura)』と題する詩集で詩作に復帰します。
ドルシッラ・タンツィは作家であり、著名な作家ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)の叔母にあたります。モンターレとは、1927年頃に出会い、長年事実上のパートナーとして共に過ごし、二人が正式に結婚したのは1958年のことです。彼女の没後、モンターレは彼女への追悼と愛を込めて、詩集『サトゥーラ(Satura)』の中に「クセニア(Xenia I, Xenia II)」という有名な連作詩を収め、詩作に復帰したのです。


Montale と Drusilla(右側)1928年
詩人モンターレは、自らの生きる時代と人間という存在について鋭く批判的に考察を続けながら、その人生において倫理的、哲学的に貫した姿勢を崩すことはありませんでした。そして、モンターレが確立した詩風は、その後のあらゆる重要な詩作運動に大きな影響を与えました。1967年、モンターレはイタリア共和国の終身上院議員に指名されるとともにケンブリッジ大学から名誉学位を受け、1975年にはノーベル文学賞を受賞しています。
1981年、『Opera in versi』の校訂版発表の直後に、モンターレは84歳でミラノでその生涯の幕を閉じました。
葬儀には4万人を超える人々が出席したとされています。
La Liguria in poesia

モンターレの詩学における主要なテーマの一つは、彼の故郷であるリグーリア州との結びつきです。
同州の風景、特にチンクエ・テッレ(Cinque Terre)のような海の風景は、
修辞技法や音響効果を通して呼び起こされます。
このように、詩人の詩行の中では、モンテッロッソ(Monterosso)という土地は「あたかも引き裂かれようとし、
海との打ち勝てない抱擁へと突き出しているかのあの岩」となり、
一方のヴェルナッツァ(Vernazza)は、その港から「光の点滅が、夜の底に潜む目に見えない波の高まりによって、
一時的に消し去られた」場所となるのです。
モンターレの韻文は、リグーリア海岸のあふれんばかりの美しさの背後に隠された魂を発見するための、
詩的な巡礼の旅(itinerarium poeticum)として読むことができます。
引用文献 :Eduflix Italia Biografia di Eugenio Montale
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