【第53話】リグーリア州出身の著名人:その3 ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)
ジュゼッペ・マッツィーニ(ジェノヴァ、1805年 – ピサ、1872年)
マッツィーニは、深い共和主義と民主主義の信念に突き動かされ、イタリア統一運動の主要人物の一人として、特にイタリア独立と統一国家・統一意識の形成のための闘いにおいて傑出した功績を残しました。
1805年6月22日ジェノヴァに生まれたジュゼッペ・マッツィーニは、父親の意向に従い、14歳でジェノヴァ大学医学部に入学しました。しかし、医学を早々に断念し、法律の勉強へと転向しました。
1821年のピエモンテのフェデラーティ(秘密結社の1つ)による反乱未遂の後、マッツィーニは祖国の自由のために戦うことの重要性を意識し始めました。法律事務所での実習を開始すると同時に、「ジェノヴァの指標(L'indicatore genovese)」紙のジャーナリストとしても活動しました。 1827年4月6日に民法およびカノン法の学位を取得し、その後、リソルジメント(イタリア統一運動)における最も重要な秘密結社のひとつであるカルボネリーアに加入しました。
革命活動への関与を理由に、マッツィーニはフランスへの亡命を余儀なくされ、1831年にそこで「青年イタリア」を設立しました。この政治結社は、イタリア国民を外国の弾圧から解放することを目的とし、イタリア諸国家をひとつの共和国へと統一することを目指していました。その後、マッツィーニは、青年ドイツ、青年ポーランド、青年ヨーロッパなど、他のヨーロッパ諸国の解放と統一をも意図した政治運動をさらに立ち上げました。
⇐ジュゼッペ・マッツィーニと若きガリバルディが1833年にマルセイユで出会い、船乗りであったガリバルディに、マッツィーニは彼がサルデーニャ王国海軍に入隊するのではなく、革命運動の遂行に加わるよう説得しました。
1866年、マッツィーニは、フィレンツェで招集されることになっていた新イタリア議会の議員を選ぶため、メッシーナの選挙に立候補しました。しかし、ロンドンでの亡命生活によって選挙運動を行うことができませんでした。というのも、彼には2つの死刑判決(1857年の蜂起に関連してジェノヴァで下されたものと、ナポレオン3世暗殺未遂への関与によりパリで下されたもの)が重くのしかかっていたからです。 選挙での勝利にもかかわらず、過去の判決が原因でその勝利は無効とされました。その後の再選挙でマッツィーニは再び勝利しましたが、その勝利も2度目の無効となりました。 3度目の選挙と3度目の勝利を経て、ようやく議会はその結果を承認することができました。しかし、マッツィーニはアルベルト憲法(サヴォイア憲法)への忠誠の誓いを拒否し、議員就任を辞退しました。
1868年にルガーノへ移住し、1870年には恩赦のおかげでイタリアへ帰国し、新たな民衆蜂起を組織しました。 8月14日、パレルモで逮捕され、ガイータの軍事刑務所に連行されました。 再び亡命させられたものの、その後、ジョルジョ・ブラウンという偽名を使って1872年2月7日にピサへと帰還を果たしました。
ピサにおいて、同年の3月10日に彼は息を引き取りました。それは、自身が国の自然な首都とみなしていたローマが、ついにイタリアのものとなるのを目の当たりにする少し前のことでした。
彼の政治思想には、深い宗教的インスピレーションが満ちていました。マッツィーニは、神の意志が人民の意識の中に力強く現れること、そして各国家が人類の普遍的な進歩に貢献するために神から直接使命を与えられているのだと主張していました。 マッツィーニは、国家の自由と独立は、全住民の犠牲と共同の行動を通じてのみ達成できると考えていました。したがって彼は、統一こそが国家の存続と発展に不可欠な条件であり、唯一正当な政府の形態は人民の意志を完全に表現する「共和国」であると高らかに宣言したのです。
引用文献 :YouTube La Storia In Breve Giuseppe Mazzini in 5 minuti
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