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【第7話】カラブリア州出身の著名人:その2 ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace)

第7話:カラブリア州出身の著名人:その2

ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace:1946-1997)
「レッジョ・カラブリアは、私の人生の物語が始まった王国です。母のオートクチュールのプティックがあり、幼い頃、ホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』、『アエネイス』を鑑賞し始め、マグナ・グラエキアの芸術に触れ始めた場所なのです。」
La Medusa di Versace, simbolo del legame profondo della Maison con la Calabria
メドゥーサは、ヴェルサーチェとメゾンの故郷であるカラブリアとの強い絆を物語るシンボルです。
1992年のインタビューでジャンニが語ったその物語は、カラブリアの州都で1946年12月2日に始まりました。母のフランカはプロの仕立て屋で、レッジョ大聖堂の近くにイタリアでも有数の仕立て屋を所有していました。ジャンニはそこでしばらく働いた後、高等学校を中退し、1972年にミラノに移り、デザイナーとして働き始めました。
1975年、彼はコンプリチェのために革製の服で構成された初のコレクションを発表し、1978年3月28日、兄のサントとクラウディオ・ルティと共に自身のブランドを設立した後、自身の名前を冠した初のコレクションを発表しました。ミラノのパラッツォ・デッラ・ペルマネンテで発表されたこの最初のコレクションは、すでにジャンニの好みと大胆さを示していました。プリント、ドレープ、そして金属的な要素は、当時の慣習を打ち破り、ジャンニと彼の生まれたばかりのファッションハウスをイタリアだけでなく世界のファッション界の頂点へと押し上げました。
美術史とギリシャ神話に情熱を注いでいたジャンニは、ブランドのロゴとしてゴルゴン三姉妹の一人であるメドゥーサを選びました。神話によると、魅惑的なメドゥーサはその並外れた美しさによってポセイドンを誘惑し、嫉妬深いアテナの怒りを買い、恐ろしい蛇の髪を持つ怪物に変えられ、燃えるような瞳と目を合わせた者は誰でも石に変えてしまうとされました。
ジャンニのキャリアはオートクチュールに留まらず、演劇や音楽ともコラボレーションしました。リヒャルト・シュトラウスの『ヨセフ伝説』、マーラーの『リート・フォン・デア・エルデ』、ドニゼッティの『ドン・パスクワーレ』、ベジャールの『ディオニュソス』の衣装をデザインしました。
また、マドンナやエルトン・ジョンといった国際的な著名人の衣装も手がけたほか、イギリスの故ダイアナ妃も彼のデザインを寵愛していました。
また、「一般の女性像とはかけ離れた痩せすぎで病的なモデルを起用するのではなく、“生きた女性”に自分の服を着て欲しい」と語っていたジャンニは、シンディ・クロフォード、ナオミ・キャンベル、カーラ・ブルーニらが活躍した1990年代の世界的なスーパーモデルブームの立役者でもあるのです。
デザイン、技術、そして生地の研究において絶対的な革新者であり、存在しない生地は自ら作り出しました。その一例が1982年のコレクションで、ジャンニは非常に軽く柔らかい金属製のメッシュであるオロトンを選び、それによって真の傑作を生み出しました。1980年代後半のシルクシャツに施されたバロック風のカラフルなプリント、1990年代を特徴づけた黒とボンデージ、そしてカラブリア出身のデザイナーの独特な特徴である金属的な要素は、彼の早すぎる悲劇的な死の直前のジャンニの遺産を代表しています。

1997年7月15日、真昼のマイアミビーチの別荘の入り口の階段で、ジャンニはアンドリュー・クナナンによって2発の銃弾で暗殺され、時代を超越した、ファッション史における決定的なアイコンの生涯に終止符が打たれました。
「真の芸術家は職人だと気づきました。
自分が仕立て屋ではないと言うデザイナーたちには笑ってしまいます。
確かに、彼らの服を見ればすぐにわかります。
私の考えでは、真の芸術家とは自分の手で物を作る人です。
したがって、デザイナーは仕立て屋でなければなりません。」
ジャンニ・ヴェルサーチェ


引用文献:https://www.collater.al/gianni-versace-storia-style/
次回5月8日は、「Il Signor Volare : Domenico Modugno 」です。