【第2話】シチリア島出身の著名人:その2 ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)
※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。
第2話 シチリア島出身の著名人:その2
ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincnzo Bellinie)
(カターニア、1801年生 - プトー、1835年没)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、イタリアのベルカントオペラを代表する作曲家の一人で、「カターニアの白鳥 “Cigno catanese”」という愛称で親しまれました。
ハインリヒ・ハイネは「フィレンツェの夜」の中で、ベッリーニの容姿を以下のように描写しています。
「彼は背が高く、すらりとした体型で… 顔は整っていて、やや面長で、青白いピンク色をしていた。髪は金色に近いブロンドで、まばらな巻き毛にしていた。額は非常に広く、気品があった。鼻は真っ直ぐで、目は青く、青白かった。口は均整が取れていて、顎は丸かった。彼の顔立ちには、どこか曖昧で、特徴がなく、乳白色のようなところがあり、その乳白色の顔には、時折、甘酸っぱい苦痛の表情が浮かんだ。」
1801年にカターニアで生まれたベッリーニは、父親は作曲家であり、父方の祖父、ヴィンチェンツォ・トビア・ニコラ・ベッリーニは、高名な宗教音楽の作曲家でした。幼い頃から音楽の才能を発揮し、1819年にはカターニア市から奨学金が与えられ、ナポリの王立音楽院に通いました。ナポリでの経験を経て、オペラ『海賊』(1827年)と『異国の女』(1829年)は、ミラノ・スカラ座で大成功を収め、その後5つのオペラを作曲し、特にミラノの観客のために書かれた『夢遊病の娘』と『ノルマ』(どちらも1831年に上演)が最も成功しました。
ベッリーニのキャリアと芸術における決定的な転換期は、イタリアを離れパリへ向かったことでした。ここで彼は、フレデリック・ショパン(1810年~1849年)をはじめとするヨーロッパで最も偉大な作曲家たちと交流し、彼の音楽言語は、常に変わらぬ旋律のインスピレーションを保ちながらも、新しい色彩とソリューションで豊かになりました。パリに住んでいたジョアキーノ・ロッシーニ(1792年2月29日~1868年)は、彼を自分の愛弟子と考えていました。
彼の最後のオペラ『清教徒』は、1835年に初演され、大成功を収めました。しかし、才能溢れるこの芸術家は、1830年初めに感染したアメーバ性腸感染症のため、1835年にフランスのプトーでわずか33歳で早逝しました。
学者のヌンツィオ・バルバガッロは、ベッリーニの死が発表されたとき、カターニアの住民は衝撃を受け、まるで近親者が亡くなったかのように、喪服を着て市立劇場での「ノルマ」の公演に出席したと書いています。
1. マッシモ・ベリーニ劇場:Teatro Massimo Vincenzo Bellini
マッシモベリーニ劇場は、南イタリアのシチリア島カターニアにあるヴィンチェンツォ・ベリーニ広場にあるオペラハウスです。ベッリーニにちなんで名付けられ、1890年5月31日に作曲家の傑作「ノルマ」が演奏されて発足しました。
2. 1985年のイタリア銀行発行の5000リラ紙幣。
表面にはヴィンチェンツォ・ベッリーニの肖像画、背景には大きなオペラハウスが描かれています。 裏面には、ノルマを連想させる木のそばに立つ女性像が描かれています。
3. なぜ 「Pasta alla Norma」?
ベッリーニの重要なオペラの名前が、カターニアのパスタ料理の名前に使われています。
シチリア演劇の劇作家、ニーノ・マルトーリオが、ある日、トマトソース、揚げナス、塩リコッタチーズを使ったパスタ料理を出されたとき、余りの美味しさに「これはまさにノルマだ!」と叫び、その素晴らしさをベッリーニのオペラに例えたことに由来すると言われています。
引用文献:Balarm.it storia e tradizioni
次回3月18日は「ナタリア・ギンズブルグ: Natalia Ginzburg」です。