【第3話】シチリア島出身の著名人:その3 ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)
※2024年4月から森下文化センターのイタリア語講座で教材として取り上げている内容を
編集して載せています。
第3話 シチリア島出身の著名人:その3
ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)
(パレルモ, 1916 生~ローマ, 1991没)
20世紀イタリアで最も著名な作家であり知識人の一人です。彼女の作品の中でも、「ある家族の会話:Lessico famigliare」はイタリア文学の宝石とも言われ、1963年に権威あるストレーガ賞を受賞しました。
ナタリアとレオーネ・ギンズブルグ
生涯と作品
1916年にパレルモで生まれたナタリア・レーヴィは、ユダヤ人の家庭に育ちました。父親は著名な大学教授であり科学者でしたが、ファシズム政権の台頭とともに、公然と反ファシズムの立場を取るようになり、一家はトリノに移り、彼女はそこで教育を受け始めました。
20世紀初頭に生まれた女性が、多様で深遠かつ確固たる作品を生み出すことは、ほとんど不可能に思われていましたが、彼女はそれを成し遂げ、小説だけでなく、演劇、エッセイ、評論、翻訳など、多岐にわたる分野で才能を発揮しました。特に、マルセル・プルーストの膨大で難解な作品「失われた時を求めて」の最初の巻を、21歳という若さでイタリアで初めて翻訳したことは特筆に値します。
1938年、彼女はイタリアの文学者であり、同じくユダヤ人であるレオーネ・ギンズブルグと結婚しました。彼女は夫の姓を名乗り、夫とともに作品を発表し、広く知られるようになりました。夫との交流を通じて、当時のトリノで最も重要な反ファシズム知識人たちと強く結びつき、レオーネが協力していたエイナウディ出版社周辺に集まって活動しました。
1940年、レオーネとナタリアは政権によって追放処分を受け、1944年、レオーネ・ギンズブルグはローマのレジーナ・コーエリ刑務所でナチス・ファシストによって尋問と拷問を受けた後、1944年2月4日の夜、妻ナタリアに最後の手紙を書き、数時間後の2月5日に息を引き取りました。
同年、アメリカ軍の解放後、彼女はローマに移り、エイナウディ出版社との協力関係を開始しました。
その後、トリーノに戻り、家族と再会しました。再婚して文学的にも最も多作な時期を迎えましたが、1969年にはその2番目の夫も亡くなり、その後、1980年代まで政治活動や文化活動に積極的に関わるようになりました。ナターリア・ギンズブルグは、ローマで1991年に亡くなりました。
ある家族の会話:Lessico famigliare
「家族の語彙」は、作者の幼少時代とレーヴィ家の出来事を描いた自伝的小説です。ギンズブルグは、家族の逸話や習慣を語っています。幼少時代の出来事、山で過ごした夏の休暇、父が几帳面に守っていた習慣などを通して、家族の性格を再構築し、優しくも皮肉を込めて家族の絆や個人の感情を繊細に描き出しています。
ユダヤ人であり反ファシストである家族の物語には、当然のことながら歴史的出来事が深く関わっています。家宅捜索、父親と3人の兄弟が受けた投獄など、反ファシストを公言する家族が歴史的事件から受けた重圧が描かれています。しかし、これらの出来事は、自由な形式で語られ、彼女の文学作品は、イタリアの歴史と文化を背景に、存在の具体的な意味を考察する機会を与えてくれます。
引用文献:L’ultima lettera di Leone Ginzburg a Natalia | Blog | Sul Romanzo
次回3月28日は「グラツィア・デレッダ:Grazia Deledda」です。